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梅田墓跡に1500体もの人骨?!『大阪七墓巡り』とは?人骨の上に駅?

2020年8月13日、JR大阪駅北側の再開発地区「うめきた2期区域」の「梅田墓」跡地からおよそ1,500体もの人骨が見つかったという驚くべき発表がありました。

故人は、江戸時代後期から明治初期に埋葬された庶民だったようです。

『梅田墓』跡地とは、具体的にはどのあたり?

大阪駅周辺

1500体もの人骨が見つかったのは、JR大阪駅北側の「うめきた2期区域」にある梅田墓の跡地でした。

「うめきた2期区域」には、2024年~2027年の”街開き”に向けて、新駅(仮称:北梅田駅)や都市公園、ホテルの設置が計画されています。2025年の大阪万博に備え、世界中からお客さまをお迎えする準備をしている場所です。

「うめきた1期区域」については、2013年に「グランフロント大阪」が完成しています。

Ruby
Ruby
「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地でした
桃花ちゃん
桃花ちゃん
もしかするとその駅は人骨の上にあったということですか?
佐々木先生
佐々木先生
1897(明治20)年頃、有縁墓は市内各所に移転され、無縁墓はそのままにして、真上に駅ができたようです
百犬くん
百犬くん
知りたくなかったワン

江戸から明治にかけての大阪で一番賑わっていたのは、大阪城周辺。つまり、現在の京橋から大阪ビジネスパークのあたりでした。

一方、このあたりは、「曽根崎村」とよばれ、人はそれほど住んでいなかったようです。

『梅田墓』にはどんな人たちが埋葬され、死因は?

『梅田墓』には、一般庶民たちが眠る

「梅田墓」に埋葬されていたのは、江戸時代の後半から明治20年ごろにかけて、大坂城下町に暮らしていた一般庶民たちです。

江戸時代の初期に現・天満周辺にあったお墓を現・大阪駅の南側付近(大阪駅前第1ビル周辺)に集め、さらにその後現在のうめきた南西部に再移転したと伝わっています。

駅の南側付近から現在の場所への移転は、貞享年間(1684~1688年)であるとされていますが、その間にもう一か所挟んでいるという説もあるそうです。

2017年2~6月の調査でも200体見つかる

今回見つかった1500体もの人骨のほかに、2017年2月から6月の調査でも200体の人骨が見つかっていました。

埋葬者は、疫病や自然災害で亡くなった可能性が高い

石垣で囲まれた梅田墓は、同じように南北にも石垣で分けられていました。600体が発掘された北側には、4~5体ずつ積み重ねた墓穴が10個程度、南側の900体は、棺や桶に1体ずつ座った姿勢で埋葬されたり、北側同様、複数人を積み重ねたりしたものがありました。

埋葬の方法は火葬、土葬両方あり、なかには土を被せただけの簡単なものもあったそうです。

以上のことから、疫病の流行や自然災害で大勢の人々が一度に亡くなった可能性が高く、2017年の調査結果によると、3割近くの人骨には梅毒や骨肉腫などによる骨の病変も見られたそうです。

埋葬された人々の平均年齢は30代ととても若い

「梅田墓」に埋葬されている人々の平均年齢は30代で、子どもも珍しくなかったそうです。お墓の主の多くは、寿命を迎えず旅立たれたようでした。

故人への愛が感じられる副葬品の数々

おはじきイメージ

副葬品には、土人形や数珠玉、とっくりのミニチュア、かんざし、キセル、金貨、おはじきなどがありました。

おはじきは、ここに埋葬されている子どもが遊んでいたものだと見られています。

Ruby
Ruby
「とっくりのミニチュア」が見つかったということは、故人はお酒が好きだったのでしょうね
向日葵さん
向日葵さん
今でもビールの形をしたろうそくなんかがありますよね。なんだかしんみりする話ですね

初代大阪駅ができたときには、無縁仏となっていた人たちも、他界された当時は、誰かの大切なご家族だったわけですね。安心しました。

『梅田墓』は、人形浄瑠璃にも登場

『梅田墓』は、「大坂七墓」のひとつで、近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」や「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」、伊原西鶴の「好色二代男」にも登場します。

「梅田」は、その昔、利用価値のない場所だった?

今でこそ、大阪屈指の繁華街である「梅田」ですが、昔は泥田の埋め立て地で、「梅田」という名の由来は「埋田(うめだ)」であったとされます。

当時の梅田は、人が住むのにはあまり適さない場所で、「梅田墓」の近くには火葬場もあったそうです。

初代の大阪駅についても、「陸(おか)蒸気」で火事が発生することを心配した住民たちが、人の多く住む都心に駅を作ることを反対し、「梅田墓」付近が選ばれたということです。

江戸時代に流行した『大阪七墓巡り』とは?

江戸時代から明治の初期まで、旧暦の7月16日の盂蘭盆会(うらぼんえ)の夕方から翌日の未明にかけて、住民たちが提灯を下げ、木魚や鈴を鳴らしながら、大阪にある七つの墓を周る「七墓巡り」が流行ったそうです。

時代によって少しずつ変わる七墓の場所

七つのお墓の場所は、時代によって微妙に変わります。たとえば、近松門左衛門の『賀古教信七墓廻(かこのきょうしんななはかめぐり)』では「梅田、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田」の7ヶ所とされています。

Wikipediaでは、高津の代わりに南浜墓地(浜墓地) がエントリー。この墓地は、行基(668~749)が開いた日本最古の墓所とされ、現在でも、大阪市設南浜霊園として一部が現存しているそうです。

『大阪七墓巡り』の目的(ご利益)は?

大阪(大坂)七墓巡りの目的は人それぞれ。無縁仏を供養して功徳を積むことや、ご想像通りの肝試し、人によっては、「デート」だったりもしたとか…。

純太くん
純太くん
このデートを楽しめるカップルは、相性抜群だね!

また、七墓巡りをすると、自分のお葬式に雨が降らないというご利益があると信じられていたそうです。

今回は、大阪のど真ん中に1500体もの人骨が見つかったという話をご紹介しました。

人骨は、初代の大阪駅ができた時に無縁仏として放置されていた人々だったようですが、副葬品を見たところ、みなさんそれぞれに幸せな人生だったのではないかと、安心しました。

2025年の大阪万博が成功することを心よりお祈り申し上げます。