新天皇が即位されたときに行われる「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」では、大麻(おおあさ)が祭祀具としての重要な役割を果たします。
大麻(=麁服/あらたえ)を調整・調進されるのは、高天原から瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とともに降臨された天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祖神に持つ阿波忌部氏直系の御殿人(みあらかんど)、徳島県美馬市の三木家第28代当主、三木 信夫氏です。
今回も『麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ) (中谷比佐子・安間信裕共著)』ほかを参考に記事を執筆させていただきました。
『大嘗祭祝詞』には、「和たへ」と「荒たへ」のほかに、「明るたへ」と「照るたへ」も登場!
大嘗祭のお供え物とされる「和たへ(にぎたえ)」と「荒たへ(あらたえ)」は、絹と麻であることが判明していますが、一緒に祝詞に登場する「明るたへ」「照るたへ」が、どのような布であったかは、今のところ不明であるとのことです。
「にぎたえ」は柔らかい着物で、「あらたえ」はゴワゴワした着物、つまり、絹と麻ということですね。
大嘗祭で、大麻(麁服/あらたえ)を調進する阿波忌部氏の祖神とは?
忌部氏の「忌」は「斎」と同じ意味を持ちます。「忌部」とは、穢れを忌み嫌う(穢れを取り去り)、神事を司る氏族という意味を持ちます。
天孫降臨の神話では、忌部氏の祖神は、瓊瓊杵尊とともに降臨した天太玉命(アメノフトダマノミコト)だと伝わっています。
天の岩戸の神話によると、弟のスサノオノミコトの乱暴狼藉に困り果てた天照大神は、天の岩戸(洞窟)にこもり、世界は暗闇に包まれました。
このとき、鹿の骨を焼いて神意を占い、岩戸から無事引き出すことに成功したのも天太玉命でした。
阿波忌部氏が麁服の調進に関わっていた最古の記録は807年の『古語拾遺』にあります。
一方、繪服(絹)を、調整・調進していたのは、神服部(かんはとりべ)という氏族でしたが、残念ながら、その家系はすでに途絶えてしまっているようです。
高天原の暮らしは「縄文時代」?!
『麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ) 』の著者、中谷 比佐子さんの説では、「高天原」の時代は、私たちが縄文時代と呼んでいる時代。そしてその当時の「衣」といえば「大麻(おおあさ)」です。
また、縄文式土器の模様は大麻の糸を縒ったものとピッタリ一致するそうです。
大嘗祭に調整・調進される大麻(麁服)を育てる場所は、徳島県美馬市木屋平
斎麻畑と阿波忌部氏直系、三木家の住宅は徳島県美馬市木屋平にあります。ここは海抜700mで、地上より3度から5度も気温が低い場所。
さらにここは西日が当たらず朝霧が立ち、一番、麻畑に適した場所だそうです。そしてここ徳島県美馬市木屋平は、「高天原」の比定地の一つでもあります。
種を植えてから刈り取るまで、斎麻畑は、24時間体制で監視員が見守るのですが、「大麻取締法」により盗難を防ぐためだけではなく、畑を清浄に保っておくためだとか。
三木家住宅は国の重要文化財
江戸時代前期(17世紀代)に建てられた三木家の住宅(美馬市木屋平字貢143)は、徳島県最古の建物とされ、国の重要文化財に指定されています。
隣接する三木家資料館とともに、無料で見学することができます。資料館には、鎌倉時代から室町時代にかけての45通にもおよぶ古文書が展示され、三木家が代々、大嘗祭に麁服を調整・調達してきた歴史がつづられています。
三木家住宅および、三木家資料館は、原則的に4月から11月の土日祝のみ開館。住宅は28代目当主が守られていますが、資料館はボランティアにより管理されていて、臨時休業もあります。
見学の際は、事前確認をおすすめします。(美馬市教育員会:0883-52-8011/美馬市木屋平総合支所:0883-68-2112)
アクセス方法は、美馬市営バス「穴吹・木屋平」線「竹屋敷停留所」下車、徒歩1時間とありますので、健脚の方以外は車が良さそうです。
ちなみに1973(昭和48)年に、三木家の所在地名が「麻植(おえ)郡木屋平村」から、美馬市木屋平に変わりました。
そしてここは、天太玉命の子孫である天日鷲命(アメノヒワシノミコト)が開拓した地であると伝わっています。天日鷲命は、「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業や製紙業の守護人となっています。
大嘗祭に調進される大麻(麁服)はどんなもの?
麁服の大きさは、幅9寸(27cm)、長さ2丞6尺(7.88m)で、悠紀殿(ゆきでん)に2反、主基殿(すきでん)に2反置かれます。
ちなみに、このサイズは今の着物の反物と同じだそうです。
悠紀殿と主基殿については、以下のページをご参照ください。
大嘗祭の大麻(麁服)は大切に育てられる
播種式(はくしゅしき)
清められ鳥居を立てた斎麻畑に、地鎮祭を行い大麻の種が撒かれます。
斎麻畑は、竹の柵と鉄線で守られ、地元の人たちの手で丁寧に育てられます。
三木家第28代当主の三木 信夫さんのことは、あらたえ調製、調進の統括者ということで「御殿人(みあらかんど)」と呼びますが、製作する人たちのことは「御衣人(みぞびと)」と呼ぶそうです。
抜麻式(ばつましき)
大麻(おおあさ)が180cm以上に育てば、収穫し30本ずつ束ねます。
茎の部分のみ使用しますので、日本の法律で違法とされているTHC成分はもちろん含有していません。
初蒸式(はつじょうしき)
清められた麻釜に、茎を入れ煮ます。これにより、繊維が丈夫になります。
そして、1週間から10日ほど天日で干し、もう一度煮ます。
その後、表皮をはぎ、さらに雑味を落とし、陰干しすると黄金色の「精麻」が完成します。
初紡式(はつぼうしき)
5人の巫女さんと地元の乙女たちが、麻糸を糸車に巻き取ります。
そして、祝詞を奏上したあと、木屋平から徳島県吉野川市山川町まで搬送します。
麁服織初式(あらたえおりぞめしき)
山川町では、4人の巫女さんが1カ月かけて、4反の麁服を織り上げます。
忌部神社織り上げ奉告式
阿波忌部氏の祖神が祀られている忌部神社に、麁服の織り上がりを奉告します。
その後、三木家の天狗の間で、一晩安置されます。
木屋平出発式・山川町出発式
木屋平と機織りをした山川町で、同時に出発式を行い、宮中に運びます。
大嘗祭が終わったあと、反物はすべて燃やされるそうです。
577年ぶりの阿波忌部氏によるあらたえの復活
阿波忌部氏の麁服の調製・調進は、南北朝の動乱などで、北朝の光明天皇の大嘗祭を最後に中断していました。
大正の大嘗祭を控えた1915年。阿波忌部氏の直系の子孫である三木 宗治郎さんの陳情や、地元の人たちの努力が実り、ついに宮内省からの通達を受け当時の徳島県知事が三木 宗治郎さんを麁服の調進者に決定しました。
そして、1915年11月14日、577年ぶりに三木氏が調進した麁服が、再び大嘗宮に奉られました。
天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祖神に持つ阿波忌部氏直系の御伝人の復活です。
『麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)(電波社)』から、大嘗祭の重要な祭祀具である大麻(あらたえ)のお話を少しだけご紹介させていただきました。
『麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)』では、麁服だけではなく、絹(にぎたえ)の調製、調進の話や、御殿人の三木 信夫さんのインタビュー、貴重な写真の数々が紹介されています。
この記事を読んで、興味を持ってくださり、本を手に取って下さる方がいれば幸いです。