江戸時代から300年もの長い間、論争が続いている邪馬台国の場所。エジプト説やジャワ島説、沖縄説もあるようですが、有力なのは、九州説と畿内説(奈良)。
邪馬台国や女王卑弥呼は、日本の古事記や日本書紀には登場せず、中国の史書にのみ登場します。何か特別な理由がありそうですね。
今回は「邪馬台国の謎」の第一弾として、管理人が「邪馬台国の場所は九州である」と考える根拠を、簡単にわかりやすく説明したいと思います。
邪馬台国がはじめて登場するのは『三国志・魏志倭人伝』
邪馬台国の場所は、みなさんご存じのように「九州説」と「畿内説」が有力です。
邪馬台国や女王・卑弥呼の話は、中国の歴史書「三国志・魏志倭人伝/ぎしわじんでん(280~297年)」にかなり詳しく書かれているのに、なぜ令和の時代になっても、この論争に決着がつかないのでしょうか。
邪馬台国は、古代中国の王朝・魏(220~265年)に一目置かれるような有力な国であったにもかかわらず、古事記(712年)や日本書紀(720年)には、名前すら登場しません。とてもミステリアスな国家です。
そこで、魏王朝が朝鮮半島に置いていた軍事・政治・経済の地方拠点である「帯方郡(たいほうぐん)」から「邪馬台国」までの道のりを表にしてみました。
もちろん、出典は「魏志倭人伝」です。
西暦240年、魏王朝の使者が邪馬台国の女王・卑弥呼へ、詔書や金印を届けた際の記録を元に書かれたものだと考えられています。
比定地 | 現代語訳 | 帯方郡からの距離 | ||
---|---|---|---|---|
① | 帯方郡 | ソウル付近 | 0 | |
② | 狗邪韓国 | プサン付近(加羅)倭国の北西端 | 南へ東へ、その北岸、狗邪韓国に到着。七千余里。 | 7,000 |
③ | 対海国 | 対馬 | はじめて一海を渡る。千余里。対海国に至る。 | 8,000 |
④ | 一大国 | 壱岐島 | さらに南に一海を渡る。千余里。名は瀚海(かんかい)という。一大国に至る。 | 9,000 |
⑤ | 末盧国 | 東松浦半島・唐津または呼子 | また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。 | 10,000 |
⑥ | 伊都国 | 糸島(旧怡土郡) | 東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。 | 10,500 |
⑦ | 奴国 | 博多湾(那の津)春日市? | 東南、奴国に至る。百里。 | 10,600 |
⑧ | 不彌國 | 古賀市~福津市?宇美町? | 東に行き不弥国に至る。百里。 | 10,700 |
⑨ | 投馬国 | 鹿児島・薩摩? | 南、投馬国に至る。水行二十日。 | |
⑩ | 邪馬壱国 | 宇佐~中津? | 南、邪馬壱国に至る。水行十日、陸行一月。 | 12,000 |
⑪ | 狗奴国 | 熊本・菊池川流域? | 南に狗奴国があり、 |
現代語訳・参考:http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
上の表は、古代中国の役人、陳壽(ちんじゅ)が、西晋(せいしん)(265年~316年)時代に書いた『三国志・魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)』にある、帯方郡(現ソウル)から倭国の都、邪馬台国までの行程の部分を抜粋したものです。
古代中国では、前王朝の歴史を新王朝が記録する習わしになっていました。
『三国志』は、最も正統だと認められている「正史」なのですが、当然のことながら、あいまいな部分が多く、「邪馬台国は九州なのか畿内なのか」という、江戸時代から300年以上におよぶ論争の原因となっています。
とはいえ、日本の正史である『日本書紀』や『古事記』には、邪馬台国も卑弥呼も登場しないので、わたしたちは中国の歴史書を紐解くしかありません。
帯方郡からの各国までの距離や方角は、邪馬台国畿内説も九州説も問題あり
『魏志倭人伝』には、「(帯方)郡より女王国(=邪馬壱国※魏志倭人伝には邪馬台国という国名は出てこない)に至ること萬二千余里(12,000里)」という記述があります。
帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(プサン付近)までが「七千余里」なのですから、引き算すると、プサンから邪馬台国までは「五千里」となり、畿内ということは考えられません。
これに関しては、魏志倭人伝では「短里」という単位を採用したようです。古代史研究家の谷本 茂氏は、中国最古の天文算術書、『周髀算経(しゅうひさんけい)』が、「短里」を使用していることを発見し、計算によって、1里(短里)=約76mであることを導き出しました。
三国志・東夷伝・韓条にも「南は倭と接し、方四千里可り(ばかり)」との記述があり、実際に朝鮮半島の東西の幅は、約300~360kmなので、おおむね一致します。
また、対海国の比定地は対馬、一大国は壱岐島なのは、ほぼ異論がなく、対馬~壱岐島間の距離は約76km(1,000余里)であり、こちらも見事に一致します。
魏志倭人伝「至」と「到」の使い分け?
また、次々に登場する国ですが、「直線式」または「放射線式」で読むかによっても変わってきます。
そして、魏志倭人伝では、国同士の方角や移動距離の説明に「至」と「到」二種類の漢字を使っています。
「到」を使っているのが、狗邪韓国と伊都国の二か国のみ。「至」は経過点、「到」は目的地であり到着点をあらわしているという説があります。
「伊都国起点放射説」とは、上の図Bのように、(「到」が使われている)「伊都国」を起点にして、4国の距離や方角が各々記述されているという東洋史学者の榎 一雄氏の説です。
「女王国の北側には、特別に一大率を置き諸国を監察させており、諸國はこれを畏れ憚っているている。常に伊都国で治められている。あたかも魏の刺史(しし)のようである」(一大率ーwikipedia)
「伊都国」には、女王卑弥呼が北方の国々を検察するために任命した「一大率(いちだいそつ)」という官が置かれているため、魏の使者はここで用事を済ませ、邪馬台国までは行かなかったのかもしれません。
また、投馬国と邪馬台国への道のりのみ、「南、投馬国に至る。水行二十日」「南、邪馬壱国に至る。水行十日、陸行一月」と、距離ではなく日数での記述となっています。
これに関しては、隋書俀国伝に「倭人は里数を計るには日数で数える」という説明があり、魏の使者は、投馬国や邪馬壱国までの距離を倭人から聞いた可能性があります。
ちなみに、三国志には「人が1日あたり歩く距離は三百里(約23km)である」と書かれています。平均的な速度で歩く場合は、「1時間あたり4km」とされていますので、6時間弱歩くという計算でしょうか。
魏志倭人伝に書かれている国々の方角が微妙におかしいのは?
末盧国~伊都国~奴国に関しては「東南」といういうより、「東北」に進んでいますね。この3か国の比定地は、ほぼ確定しています。
漫画家のあおき てつお氏は、「対馬海流が方向感覚を狂わせていたのだろう」と述べています。この近辺では、舳先(へさき)を「真南」に向けたとしても、平均時速2~3kmもある潮流に流され、船は「南東」へと進んでしまうそうです。
また一行は、一番船旅がしやすい初夏(夏至あたり)にやってきたと考えられますから、以下のような勘違いが発生した可能性があります。
もし一行が実際の東に向かって歩き出そうとします。すると、日の出の方角を「東」と思い込んでいる一行は、今、自分たちの進んでいる方角は「日の出より南寄り」つまり「南東」だと勘違いするのではないでしょうか?同じように実際の東北に向かって歩くと、日の出と一緒の方角なので、一行は「真東」へ向かっていくんだと思い込みます。こうして、彼らは45度近く方角を勘違いして、倭国を陸行していたのではないでしょうか。(新説!邪馬台国の真相ーあおきてつおGALLERY)
また、あおき てつお氏は、日本や西洋の中~近世の古地図の北海岸線が右肩下がりになっている理由は、この「魏志倭人伝」の記述を参考にしたからだと推察されています。(日本六十六州図/大日本行程大絵図/日本海山潮陸図)
邪馬台国九州説の有力な根拠:邪馬台国の東には海が広がっている
魏志倭人伝に「女王国東渡海千余里復有国皆倭種(女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり)」という記述があります。
これは、女王国(邪馬台国)は海に面しており、東(45度修正すると東北)の75kmほど向こうにも倭人が住む国々があると読み取れます。
なお、奈良には東(東北)方面に海のある街は存在しません。
邪馬台国九州説の有力な根拠:畿内の古墳からは絹が出土しない
魏志倭人伝に「蚕に桑を与え絹糸を紡ぎ、絹織物を作っている」とあり、当時の倭国ではすでに養蚕をしていた記録があります。また、魏の皇帝が卑弥呼に宛てた書簡にも、以下のように卑弥呼に豪華な絹を贈ったとの記述があります。
「錦(にしき)」は高級な絹織物、「帛」ももちろん、絹を意味します。
「深紅の地に、二匹の龍または蛟龍(みずち)の文様を織り出した錦」「 茜(あかね)に染め上げた平織の帛(うすぎぬ)」「紺地に曲線文を織り出した錦」「白絹」(現代語訳:弥生ミュージアム・平野 邦雄氏から引用)
これに対して卑弥呼も以下のような絹を献上しました。
「赤と青の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)で織り出した縑(かとりきぬ)」「真綿を入れた刺子(さしこ)の衣」(現代語訳:弥生ミュージアム・平野 邦雄氏から引用)
さらに卑弥呼の死後、後継者の壹与(いよ)も、男女の奴婢とともに「異文雜錦(エスニックなデザインの絹)」を魏の朝廷に贈っています。
以上のように、倭国にとって養蚕は重要な産業だったようですが、日本の遺跡から出土した弥生中期から後期の絹は、すべて北九州に集中しています。
なお、本州から出土した絹はすべて、古墳時代に入ってからのものです。
とくに、福岡県春日市にある「須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)」からは、中国産の絹が出土しています。
ただし、この古墳の副葬品には武器類が多く、被葬者は男性の王さまの可能性が高いようです。ここが「奴国」の比定地とする説もあります。
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以上のように、完ぺきとはいえませんが、邪馬台国は北九州にあったとする方が、理にかなっていると考えられます。
『神話の世界から邪馬台国へ(青松 光晴著)』『日本朝廷により封印された卑弥呼の謎と正体(斉藤 忠著)』『邪馬台国は隠された(あおき てつお著)』『邪馬台国はどこにあったのか(平本巌 著)』
今回は、「邪馬台国は北九州にあった」と考える根拠を簡単にご紹介しました。邪馬台国と大和朝廷の関係や、邪馬台国が北九州のどこにあったのかは、次回にまわします。