今回の記事は、飛鳥(明日香)レポートの最終回『キトラ古墳壁画体験館 四神の館(しじんのやかた)編』です。
『四神の館』は入館料無料。しかも写真撮影が自由です。(レプリカや写真は地下1階に常設展示されています。「壁画の実物」は1階で期間限定(事前登録制)で公開されます)。
新型コロナウイルス対応のため、現在「体験(タッチパネルに触れることやボタンを押し模型を動かすことなど)」はできませんが、それでも古代史が好きな人はたっぷり楽しめますよ。
※ 取材は4月4日(日)でした。
飛鳥(明日香)レポート①『亀バス』から蘇我馬子のお墓?『石舞台古墳』を徹底解説!
飛鳥(明日香)レポート②花の寺『岡寺』と飛鳥大仏で有名な『飛鳥寺』を解説
『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』は、JR飛鳥駅や高松塚古墳から(健脚なら)徒歩圏内
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、JR飛鳥駅からバス(奈良交通・飛鳥キトラ線)で約5分です。運賃は190円。
飛鳥駅(発) | 09:15 | 10:54 | 12:25 | 13:56 | 16:26 |
キトラ(着) | 09:20 | 10:59 | 12:30 | 14:01 | 16:31 |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ | |
キトラ(発) | 09:21 | 11:00 | 12:31 | 14:02 | 16:32 |
飛鳥駅(着) | 09:26 | 11:05 | 12:36 | 14:07 | 16:37 |
こちらは4月現在の時刻表(平日・土日とも同じ)ですが、本数が少ないため、片道だけでも利用できればラッキーです。
私たちはJR飛鳥駅から行きだけタクシー(料金約850円)を利用し、帰りは徒歩(約25分)でした。
「高松塚古墳」から「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」までの徒歩での所要時間は、飛鳥駅からとほぼ同じです。
同時代に造られた『高松塚古墳』と『キトラ古墳』の相違点
華やかな「男女群像」で差をつける『高松塚古墳』
キトラ古墳 | 高松塚古墳 | |
---|---|---|
白虎が北向き(珍しい) | 四神像 | 白虎が南向き(一般的) |
星空を精密に描く(天文図) | 天上の絵 | 星空を簡略化する(星宿図) |
獣頭人身十二支像 | 東西南北の絵 | 男女群像 |
屋根型 | 内部の天井の形 | 平天井 |
凝灰岩(二上山産) | 石室の石材 | 凝灰岩(二条山産) |
18個 | 石材の数 | 16個 |
直径:13.8m(下段)・9.4m(上段) | 古墳のサイズ(二段式円墳) | 直径:23m(下段)・18m(上段) |
幅約100cm×長さ約240cm×高さ約120cm | 石槨の内側のサイズ | 幅約103cm×長さ約265cm×高さ約113cm |
キトラ古墳と高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初めの「古墳終末期」に造られたもので、非常によく似ています。
天井に描かれた星座の絵図はキトラ古墳の圧勝ですが、色鮮やかな男女群像のインパクトが大きく、高松塚古墳の「飛鳥美人」は飛鳥のシンボル的存在となっています。
※一覧表の「サイズ」につきましては、資料によって多少差があります。
『高松塚古墳』『キトラ古墳』2つの古墳の共通点は「繊細さ」
『キトラ古墳』と『高松塚古墳』の共通点は、石室内部の壁に漆喰を塗り、しっかりと下絵を描いたうえで、筆で色をつけている点です。
両壁画とも繊細なタッチで、美しい色使いと洗練された表現が魅力です。両壁画は「壁画古墳」とよばれる飛鳥地方特有のもの。描かれるモチーフは、四神、人物像、十二支像、天文図、星宿図などです。
一方、「粗削りで力強いタッチの壁画が特徴の古墳」は、「装飾古墳」とよばれ、九州や東日本に点在しています。
石室の壁画は、石に直接描いたり、鉄筆のような道具で石を刻んだり、ノミなどで立体的に掘り出したものです。
モチーフは、幾何学模様や人物、船、弓、動物、鳥など多岐にわたります。
代表的な「装飾古墳」としては、6世紀後半に築造された福岡県うきは市の「珍敷塚古墳(めづらしづかこふん)」や7世紀前半の茨城県ひたちなか市の「虎塚古墳(とらづかこふん)」があげられます。
『キトラ古墳』の基礎知識
『キトラ古墳』は、明日香村の南西部、阿部山(あべやま)にある二段築成作りの円墳。
キトラ古墳は、高松塚古墳とほぼ同時代の7世紀末から8世紀初めの「古墳終末期」に造られてとされています。
「キトラ」の名の由来は、周辺の地名「北浦(きたうら)」から転じたという説や、盗掘に入った泥棒が玄武の亀(キ)と白虎(トラ)の幻を目撃したという説、単純に亀と虎で「キトラ」になったという説等、諸説あります。
のちほど写真でご紹介しますが、『キトラ古墳』では、1983年から2001年にかけて、玄武、青龍、白虎、天文図、朱雀、十二支像が次々に発見されました。
四神(玄武、青龍、白虎、朱雀)すべてが現存している古墳は、日本ではここ『キトラ古墳』のみであり、天井の天文図は、赤道や黄道を示す円を備える本格的な中国式星図で、現存する世界最古のものです。
被葬者については特定されておらず、古墳周辺の一帯が「阿部山」という地名であることから、69歳で没した「阿倍 御主人(あべ の みうし)」説を唱える論者が多く、高松塚古墳同様、天武天皇の皇子である「高市皇子(たけちのみこ)」や渡来人の王などの説もあります。
『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』には、実物と同サイズの石槨(せっかく)のレプリカがあり、中を覗いてみると、正面に「玄武」が見えます。
キトラ古墳の大きさは、上段が直径9.4m、高さ2.4m、下段が直径13.8m、高さ90cmで、石槨(せっかく)の内側の大きさは、幅約1.0m、長さ約2.4m、高さ約1.2mです。
石槨は18個の直方体の凝灰岩(ぎょうかいがん)で構成され、これらは古墳から北西に14㎞離れた二上山から運ばれてきたものです。
石と石は「相欠き(あいがき)」という現代でも使われている工法で組み立てられ、隙間は漆喰で埋められていたそうです。
遺体を直接入れる容器を〈棺〉,棺を収めるもので,単次葬用に作られ,大きさも棺によって規定されるものを〈槨(かく)〉,そして,棺とは直接関係しない広い空間と通路をもち,複数の棺(遺体)を順次追葬(複次葬)することのできるものを〈室〉と呼びわけるべきであるが,3者を厳密に区別することは困難な場合が少なくない。(平凡社 世界大百科事典より引用)
壁画は1,143片に分けて取り外される
壁画の漆喰が剥落する危険性があっため、作業員は防護服を着て、1,143片に分けて取り外したそうです。
すべて取り外すのに2004年から2006年までの、約6年4か月もの歳月がかかりました。
木々に覆われた丘陵の中で古墳が発見されたのが1983年。
発掘と調査、壁画の取り外しを経て、石室の再閉塞、古墳を築造時の状態に戻し復元が完了したのはなんと2013年のことでした。
国宝の壁画と副葬品を写真で紹介!
四神についての説明は、『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』のパネルに書かれていた説明書きを引用させていただきました。
壁画の実物は、1階の『キトラ古墳壁画保存管理施設』で、年3度ほど期間限定で公開されています。往復はがきまたはインターネットでの事前登録制。くわしくは、文化庁のサイトを確認ください。
日本で四神(しじん)がすべてそろっているのは「キトラ古墳」のみ!
むしろ残っていてくれたことに感謝したい『青龍(東壁)』
天井石の隙間から流れ込んだ泥土で、ほとんどの部分が隠れており、赤外線写真でも前脚の付け根あたりまでしか確認できないそうです。
頭には二本の角があり、口は大きく、舌と下アゴが長く描かれているようです。
鼻の両脇から、上に2本、下に2本の牙が突き出ています。前脚を前方に伸ばし、肩に飾り毛をつけているそうです。高さは約20cm。
躍動感あふれるスリムな『白虎(西壁)』
頭が北を向いている珍しい白虎。一般的には高松塚古墳のように南を向いているそうです。
スリムなボディで首が長く、両眼を見開いて口を大きく開き、前脚を突き出した姿が躍動感にあふれていますね。尾はピンと立っています。
顎や肩、脚の関節あたりから羽が生えて風になびいているようです。両肩と後ろ脚あたりには赤い採色が残り、お腹にも朱色が塗られています。耳の毛や黒目の細かい描写も注目のポイント。
身体の中央に泥を被っていますが、しっかりと凛々しい白い虎が確認できます。高さは24.3cm、幅は41.7cm。
日本ではキトラ古墳だけ!優美な『朱雀(南壁)』
くちばしを西に向け、地を蹴って羽を広げ、今にも飛び立とうとしているような躍動的な姿は、非常に技巧的。1300年以上も前に描かれた壁画だとは到底思えません。
身体はキジのように細身で、頭にかんむり状の羽と耳のような飾り羽がついています。
長い尾羽が5本描かれており、尾羽の付近では下書きのヘラの痕跡も観察できます。
鎌倉時代の盗掘により、羽根の先端部を失いましたが、幸い身体の大半が残っています。高さ15.0cm、現在残っている幅は39.2cm
今も昔も盗掘は犯罪です!
高松塚古墳は鎌倉時代の盗掘により、南壁に描かれていたはずの「朱雀」が完全に壊されていました。
キトラ古墳も鎌倉時代に盗掘されましたが、石室をふさいでいた閉塞石(へいそくせき)の周囲に丁寧に漆喰を流し込んでいたためか、泥棒が手馴れていたのか、盗掘孔(とうくつこう)は小さく、「朱雀」はほとんど無傷でした。
なぜ、盗掘の時代が鎌倉時代だと判明したのでしょうか?
文化庁によると「石室の内部から、盗掘者が灯明皿(とうみょうざら)として持ち込んだとみられる土師器(はじき)の小皿が出土したため」だそうです。
細かな模様までしっかり確認できる『玄武(北壁)』
西を向く亀の胴体に蛇が円を描いて巻きつき、頭と尾を交差させています。亀は後ろを振り返り、蛇と顔を突き合わせています。
蛇の体には緻密な斑点模様が描かれ、亀の甲羅にも特徴的な模様が描かれています。高さ14.9cm、幅24.7cm、蛇の円形部の幅は18.7cm。
「四神」は、中国、朝鮮半島と共通のモチーフ
青龍、白虎、朱雀、玄武の「四神」は、東アジアの古墳の壁画、共通のモチーフ。キトラ古墳の壁画を描いたのも渡来系の画師だったと考えられます。
- 蘇思勗(そしきょく/人名)墓の墓壁北壁・玄武図(写真左)
- 高句麗古墳群の江西(かんそ)中墓に描かれた朱雀(写真右)
中国や朝鮮半島の古墳の壁画と「同じモチーフ」を表現していたことがはっきりわかりますね。
現存する世界最古の本格的『中国式星図』
『日本書紀』によれば、人々が天文に興味を持ちはじめた時代は、飛鳥時代だとされています。
『キトラ古墳』の天井には、高松塚古墳を遥かに凌ぐ「科学的な天文図」が描かれていました。もちろん完ぺきではありませんが、これは現存する世界最古の本格的な中国式天文図です。
天上の天文図は、天の北極を中心にした円形の星図で、360個以上もの星々が金箔で表現され、それらを朱線でつないだ「中国風の星座」は74座確認できます。中国では信仰の対象となっていた「北斗七星」も描かれています。
また東壁に金箔で日像、西壁には銀箔で月像が表現されています。
朱線で描かれた3つの同心円は内側から
- 1年中観測できる天空の範囲を示す「内規」
- 恒星や惑星の天球上の位置を決める基準となる「天の赤道」
- 観測場所から見ることができる全ての星の範囲を示す「外規」
北西に寄った円は
- 天球上における太陽の見かけ上の通り道「黄道」
日本国内ではキトラ古墳だけ!『獣頭人身十二支像』
高松塚古墳の最大の特徴が「男女群像」なら、キトラ古墳は、科学的な天文図と『獣頭人身十二支像』です。
『獣頭人身十二支像』は、動物の頭と人間の身体で十二支を表現したもの。陰陽五行説にのっとった各方位の色の中国風の衣服を着ていますが、それぞれが武器を手にしているのは、中国では見られず、仏教か朝鮮半島の影響だとされているそうです。
古代中国では、天文図、四神図、十二支の人形(俑/よう)を置いて、棺の中に模擬世界を表現したそうですが、キトラ古墳では人形の代わりに「壁画として」十二支像を描き、被葬者を守る守護神としたとされています。
副葬品はすべて「重要文化財」
副葬品の実物は、1階の「キトラ古墳壁画保存管理施設」で、ガラス越しに見学することができます。
名称 | サイズ(cm) | 特記事項 | |
---|---|---|---|
① | 金銅製鐶座(かんざ)金具 | 7.8×7.2×0.2 | 透かし彫りの飾金具で、植物文様の忍冬文(にんどうもん)あり。棺に固定(?) |
② | 銀製鞘尻金具/刀身/銀製鞘口金具 | 9.9×3.1×1.1(刀身部) | 黒漆塗銀装大刀の鞘(さや)金具2つと刀身部分の破片。⑦と同一個体(?)。 |
③ | 鉄地銀張金象嵌(きんぞうがん)帯執(おびとり)金具 | 3.7×1.7×1.1 | 大刀を吊り下げるための帯を通した鞘金具の破片(?)。 |
④ | 銀鐶(ぎんかん)付六花形飾金具 | 4×4×0.17 | 金銅製の六花形飾金具。棺に固定するための銀製の金具1つと銅鋲6つ付き。 |
⑤ | 琥珀玉 | 1.6×1.6×1.6(大) | 球形に研磨された琥珀製の玉。大小6点が出土。用途は不明。 |
⑥ | ガラス小玉 | 0.5×0.5×0.3(大) | 20点出土。色は淡青色、黄色、青紺色、淡緑色の4種類。 |
⑦ | 銀装把 | 4.7×3.5×2.3 | 黒漆塗銀装大刀の把(つか)部分の破片。革紐を巻いた痕跡あり。②と同一個体? |
⑧ | 金銅製六花形飾金具 | 4×4×0.2(平均) | 六つの花弁を持つ花形の飾金具。釘を隠すものとして棺に取り付けた(?)。 |
キトラ古墳は古墳の時代の終わりを示す「ミニサイズ」
大仙古墳(仁徳天皇陵) VS キトラ古墳
大仙古墳(仁徳天皇陵) | キトラ古墳 | |
---|---|---|
5世紀前半~中ごろ | 時期 | 7世紀末~8世紀初めごろ |
前方後円墳 | 形 | 円墳 |
長さ486m×高さ35m | 大きさ | 直径:上段9.4m・下段13.8m×高さ4m強 |
石棺(せっかん) | 棺の素材 | 木棺(もっかん) |
周濠あり | 古墳の周り | 周濠なし |
飛鳥時代は「薄葬化(はくそうか)」の時代とされています。飛鳥時代の古墳は、それ以前の時代に比べ、規模が小さく簡素になりました。
また、石室も狭くなり、遺体を納める棺もそれまでの石棺から小さく軽い木棺などに変わり、副葬品も簡素になり、量も少なくなりました。
つまり、仁徳天皇陵に代表される、巨大な前方後円墳からはじまった「古墳時代」は、キトラ古墳造営の頃、終わりを迎えることになります。7世紀ごろに造られたキトラ古墳や高松塚古墳は、「終末期古墳」の代表的存在とされています。
「古墳時代」のいろいろな古墳の形
名称 | 特徴 | 飛鳥近辺の代表例 |
---|---|---|
①前方後円墳 | 日本の巨大古墳の第1位~44位をしめる | 橿原市・五条野丸山古墳 |
②方墳 | 古墳時代全般を通じて作られた | 都塚古墳 |
③円墳 | 全国各地で見られる 直径2~100m超まで | キトラ古墳 |
④上円下方墳 | 方墳の上に円墳をのせた珍しい形 古墳時代末期 | 石舞台古墳 |
⑤八角墳 | 古墳時代末期 近畿地方では天皇陵に見られる | 天武・持統天皇陵 |
幻想的な「4面マルチ高精細映像」と天文図をイメージした天井
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の地下1階の天井には、キトラ古墳内部の天井をイメージした電飾天文図。幻想的な雰囲気です。
大きな部屋の中央には「4面マルチ高精細映像モニター」があり、神秘的なイメージ画像と、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が実物大から40倍程度に拡大されていく様子が映し出されます。「実物大は、意外に小さい」と感じました。飛鳥美人と同じ感想です。
画面いっぱいに拡大された四神は大迫力。細部まで確認することができます。実物はガラスケースの中に入っていますので、ぜひモニターでもチェックしてみましょう。
渡来人との強い結びつきが感じられるキトラ古墳周辺
「檜隈寺」は、渡来系氏族、東漢氏の氏寺
渡来人(とらいじん)とは、古代、海を渡って日本にやってきた東アジアの人々のことをいいます。キトラ古墳周辺にも住んでいたと考えられています。
「檜隈寺(ひのくまでら)」は、渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺(うじでら)とされています。
このお寺は、7世紀末に創建されたと伝わっており、現在は、明治40(1907)年頃、道を隔てた西側から遷移した「於美阿志神社(おみあしじんじゃ)」が建っています。
「檜前(ひのくま)遺跡群」とは、檜隈寺からキトラ古墳までの周辺一帯を取り巻く遺跡群の総称。この遺跡からは、堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)群と塀、溝、土師器、須恵器、陶磁器などが見つかっており、「渡来人たちが暮らした地」だと考えられています。
渡来系氏族の氏寺の特徴は、「瓦積基壇(講堂部分)」と出土遺物
檜隈寺講堂の基壇(きだん)は、周囲に瓦を積んで化粧をしたもの。これは、他の地域の渡来系寺院にも多く見られる特徴です。
出土遺物、写真左から
- 金銅製光背飛天像(こんどうせいこうはいひてんぞう)
- 小金銅仏片(小金銅仏の手)(しょうこんどうぶつ)※銅に金メッキをほどこした小さな仏像
- 軒丸瓦(のきまるがわら)/裏 刻書(ヘラ書き)「吴(呉)」
- 出土瓦
飛最にやってきた最初の渡来人は『檜隈民使博徳』
457年、飛鳥にたどり着いた最初の渡来人は、「檜隈民使博徳(ひのくまたみのつかいはかとこ)」と「身狭村主青(むさのすぐりあお)」らと伝わっており、二人の子孫が東漢(やまとのあや)一族となり、飛鳥の文化形成に大きな役割を果たしたとされています。
5~7世紀に百済からやってきた渡来人たちは、「新しく渡来した技術者たち」という意味の「今来才伎(いまきのてひと)」とよばれていました。
キトラ古墳の壁画を描いたのも、そんな「今来才伎」の一人であった「黄文本実(きぶみのほんじつ)」だと考えられています。
外国風の暮らしが営まれていた「檜前遺跡群」界隈
「檜前(ひのくま)遺跡群」周辺を中心に活躍した「東漢氏(やまとのあやうじ)」のほか、飛鳥の地には、「鞍作氏(くらつくりうじ)」「平田氏」「軽氏(かるうじ)」「大窪氏」など、多くの渡来人が暮らしていました。
渡来人たちは、学問、思想、技術、政治など、多くの面で影響力を発揮し、ここに飛鳥に白鳳の文化が花開きました。
渡来人の暮らしぶりがよくわかる遺構
- L字形カマド(カマドの煙を、家の中の壁沿いに設けたL字形、または逆L字形の煙道を通して外に出す)
- 大壁建物(細い溝を掘り、その溝の中に柱を立てて壁を作る建物。柱は土壁に塗り込められ外からは見えない)
- オンドル(カマドの焚き口から延びる煙道を居住空間の床下に通し、床を暖めることで、部屋全体を暖める設備。現在でも朝鮮半島で使われている)
渡来人の暮らしをジオラマで再現
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」では、飛鳥時代の渡来人の暮らしを楽しいジオラマで再現しています。
- 稲刈り(弥生時代には、種を田んぼに撒き、穂先だけを収穫していたようですが、飛鳥時代には鉄の農機具が発達したため、現在のように苗を植える田植え方式になり、稲の根元から刈り取るようになったとされています。刈り取った茎は、「わらじ」や「みの」になったそうです)
- 鉄器作り(溶かした鉄を鋳型に流し込んで形を作る「鋳造(ちゅうぞう)」や、熱した鉄を鍛える「鍛造(たんぞう)」という方法で、灌漑用の土木作業用具や農具が造られていたと考えられています)
- 台所(コシキにスノコをはめて、穀物などの食材を載せ、下に水を入れた容器を置き、火にかけて、蒸気で蒸していました。米にはアワ、ヒエ、キビなどの雑穀を混ぜていたようです。食材は、大麦、小麦、豆類、カブ、チシャ、セリなどの野菜、キノコ、木の実、果物、海藻、鹿、猪、野鳥、魚など、海の幸、山の幸が豊富に揃っていたようです。)
- 住まい(縄文時代から続く、地面を掘りこんで床面とし、そこに柱を立てて屋根をかける構造の「竪穴式の家」と、地面を床面とし、そこに柱を立てて壁を造り、その上に屋根をかけた「堀立柱の家」の2種があったとされます。どちらも直接地面に穴を掘り、柱を立てていました。掘立柱の家のひとつに先ほど登場した「大壁構造」の家があります)
- 木の実採り(野山に自生するナシ、スモモ、モモ、ウメ、ビワ、タチバナ、ヤマモモ、カキなどの果物や、クリ、シイ、カヤ、イチイ、クルミなどの木の実を女性が採り集め、生で食べたり、干して保存食にしていました。特にどんぐり類は、主食の不足を補うものとして重宝されていました)
特別史跡『キトラ古墳』の周辺は気持ちの良い公園
この日はあいにくの雨でしたが、「四神の広場」は、市民と旅行者の憩いの場。お天気の良い日には、お弁当を広げる家族連れやカップルもいます。
こちらはキトラ古墳周辺の地形を復元した模型。意外に傾斜があるようです。
特別史跡「キトラ古墳」の説明看板。
下から見上げるとやはり傾斜が急ですね。復元模型は正確でした。
名称 | キトラ古墳壁画体験館 四神の館 |
---|---|
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字阿部山67 |
電話番号 | 0744-54-5105 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | 9:30~17:00(3月~11月)/9:30~16:30(12月~2月) |
休館日 | 年末年始・壁画非公開時は水曜日(祝日の場合は翌平日)※問合せ推奨 |
交通アクセス | 近鉄吉野線壺阪山駅より徒歩15分/飛鳥駅より徒歩30分/バス便あり |
公式サイト | https://www.nabunken.go.jp/shijin/index.html |
今回は『キトラ古墳壁画体験館 四神の館(しじんのやかた)編』をご紹介しました。
新型コロナウイルス対策のため、タッチパネルやボタン操作はできませんでしたが、歴史好きなら誰もが十分楽しめる施設でした。しかも入館料無料で、写真撮影も自由です。
土日祝には、勾玉やキトラ古墳から出土した海獣葡萄鏡を作る体験プログラムもあります。有料となりますが、現地での当日受付も可能で、最終受付は15:30となっています。
ぜひ『高松塚古墳壁画館』とセットでお楽しみくださいね。