今回は、昨年2019年1月に93歳で他界された哲学者の梅原猛さんの代表作「隠された十字架-法隆寺論-」をご紹介したいと思います。
梅原猛さんの仮説は、考古学・歴史学の世界では異端とされ、厳しく批判されているようですが、私たち一般人が納得できるものなのか、そうでないのか、確認していきたいと思います。少しだけネタバレも含みますので、ご注意くださいね。
隠された十字架で論じられている『怨霊寺』とは?
「法隆寺」は、奈良県生駒郡斑鳩町に位置する、聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)ゆかりのお寺です。聖徳太子本人が父の用明天皇を弔うために建立したお寺だという説もありますよね。
哲学者の梅原猛氏は、著書『隠された十字架』のなかで、法隆寺は聖徳太子が父のために建てたお寺や太子を慕う人々が太子の功績を讃えるために建てたお寺ではなく、太子の怨霊を鎮める目的で建立されたお寺であると論じています
梅原猛氏による『たたり』の条件
梅原猛氏による『たたり』の条件は以下のとおりです。
(1)個人で神々に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。
(2)しかもそのとき、彼らは無罪にして殺害されたものである。
(3)罪無くして殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
(4)時の権力者はその祟りを鎮め自己の政権を安泰にする為に、祟りの霊を手厚く葬る。
(5)それとともに、祟りの神の徳を褒め讃え、良き名をその霊に追贈する。(wikipedia)
有名な怨霊信仰の例『天満宮』に祀られる菅原道真公
「怨霊寺(神社)」としては、菅原道真公(845~903)を祀った「天満宮」が有名です。
菅原道真公は、醍醐朝(885~930)の御代に右大臣にまで昇りつめた有能な政治家でしたが、謀反を企てたとし大宰府へ左遷され、子どもたちは流罪となり、本人は現地で亡くなりました。
908年から923年の短期間で、左遷のきっかけを作ったと伝わる藤原菅根(ふじわらのすがね)や藤原時平の病死、源光(みなもとのひかる)の溺死が続きました。
そこで923年、故人である道真を右大臣に戻し、さらに一階級上の「正二位」を贈りましたが、930年、清涼殿に雷が落ち、会合の最中だった藤原清貫(ふじわら の きよつら)をはじめとする多数の死傷者が出ました。
そこで、947年、京都の北野に道真公を祀る社殿が造営され、今日では「学問の神様」として受験生たちに親しまれています。
天満宮は、梅原猛説の「怨霊神社」の条件を満たしていますね。
梅原猛説では『出雲大社』も怨霊神社
「出雲大社」といえば、縁結びの神さま、「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を祀る神社として知られ、一見「たたり」などとは無縁のようですが、梅原猛説では、この神社も「祟り神社」の要件をみたしているそうです。
「古事記」には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者である建御雷神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)に、「国を譲ってほしい」と頼まれた大国主命は、「わたしのために立派な宮殿を造ってくれるのなら、あなたのご要望に応じましょう」と快く国を譲ったと書かれています。
梅原猛氏は「国譲り」の神話に関しても、天孫降臨(ヤマト王権の成立)以前からこの土地を治めていたとされる土着の神(地方の豪族)を武力で制圧したという史実を、平和的な神話に置き換えたものだとの仮説を立てています。
出雲神社の参拝作法は「2礼4拍手1礼」
出雲大社の参拝作法は「2礼4拍手1礼」で、一般的な「2礼2拍手1礼」の作法とは異なり、「死」を連想させる「4」が含まれています。
梅原氏は、この参拝作法を、出雲大社が大国主命の怨霊を鎮める目的の「祟り神社」であることの根拠のひとつにしています。
Q.神社の作法を、「2礼2拍手1礼」といったり、「2拝2拍手1拝」といったりしますが、どう違うのでしょうか?A.「礼」は45度くらいのお辞儀、「拝」は90度くらいの深いお辞儀です。前者は戦後に一般化しました。
隠された十字架-法隆寺論-ネタバレ①一聖徳太子はなぜ祟る?
聖徳太子は超人だった?
聖徳太子といえば、「和を以て貴しと為す」からはじまる「十七条の憲法」、出自に関係なく能力のある人材を抜擢する「冠位十二階」などの画期的な制度や、小野妹子らを遣隋使として隋に派遣するなど、さまざまな功績が伝わっています。
隋の皇帝煬帝に「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」というちょっぴり(?)失礼な文書を送り、皇帝を怒らせたという逸話もありますよね。
また、生まれてすぐに話ができたとか、10人が同時に話しかけても聞き分けることができたといった、にわかには信じられない超人的な伝説もあります。
なお、聖徳太子という名前は、死後の諡(おくりな)であり、生前は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」とよばれていました。
梅原氏の説では、祟りを恐れた後世の人たちが、「聖徳」というこの上なく立派な諡を授けたということです。
聖徳太子は悲劇のヒーローでもある!「上宮王家滅亡事件」で一家全滅
643年、「蘇我入鹿(そがのいるか)」は、舒明天皇(じょめいてんのう)の第一皇子である「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ」を次期天皇にしようと考え、ライバルの聖徳太子の息子、「山背大兄王(やましろのおおえのおうじ)」の殺害を企てました。
山背大兄皇子殺害の実行犯は、「巨勢徳多(こせ の とこた)」ほか100名の兵たち。山背大兄皇子は、斑鳩宮に馬の骨を残し火を放ち、一族と生駒山へ逃亡しました。巨勢徳多らは、灰と化した馬の骨を見て山背大兄王らの骨だと思い込み引きあげます。
とはいえ、山背大兄皇子は、この戦いに巻き込まれる罪もない百姓たちのことを考え、生駒山から斑鳩寺に戻り、一族25人で自害します。この事件により、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡することになります。
日本書紀には、山背大兄皇子の殺害は「入鹿、独り謀りて」とあり、事件後の入鹿の独裁ぶりも書かれています。
聖徳太子や蘇我入鹿を利用した黒幕とは?
当然、蘇我入鹿は極悪人ということになってしまいますよね。そこに登場するのが、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおうえのおうじ/のちの天智天皇)です。
645年の「大化の改新」へとつながる「乙巳の変(いっしのへん)」は、「悪人」の入鹿を暗殺し、蘇我宗家滅ぼしたクーデター。古人大兄皇子も謀反の罪で処刑されました。
この「大化の改新」により、天皇中心の律令制がはじまります。
中臣鎌足は生涯、天智天皇の右腕として活躍しましたが、669年秋、病に倒れます。天智天皇は鎌足を見舞い、大織冠(だいしきこうぶり/冠位の最上位)と「藤原姓」を授けました。けれどもその翌日、鎌足は息を引き取ります。享年56歳。
これが、11世紀の藤原道長の時代には、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」と詠まれるまでになった「藤原氏」のはじまりまです。その後、藤原氏は、娘を天皇家に嫁がせることで摂政や関白となり、勢力を拡大していきました。
鎌足が病に倒れる直前にも屋敷に雷が落ちたらしく、死霊の復讐だと考えられていました。
不思議なことに、鎌足の死の翌年670年に、法隆寺は一度全焼しています。(梅原氏の説では、現在の法隆寺は711年に再建されたもの)
藤原鎌足の子が、「隠された十字架」のキーパーソンである「藤原不比等(ふじわらふひと)」で、「日本書紀」を編纂した中心人物とされています。
梅原氏は、藤原不比等は意図的に、英雄である聖徳太子の息子の山背大兄皇子を殺害した蘇我入鹿を悪玉にし、その悪玉を殺害した藤原鎌足を善玉に仕立て上げたと仮説を立てました。
つまり、聖徳太子を立派な人物に持ち上げれば持ち上げるほど、入鹿が極悪人になり、それにともない鎌足が善人になるという構図です。
また、梅原氏の説では、山背大兄王暗殺の陰には、孝徳帝と政治顧問の中臣(藤原)鎌足がいたとしていますので、もしこれが本当なら、日本書紀を利用した「壮大な陰謀」が成功を収めたことになりますね。
藤原一族が得たものは、故人である聖徳太子より譲り受けた「仏教の保護者としての地位」なのです。
梅原氏は、『古事記』の編纂者である「稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)」の正体も藤原不比等だと述べています。
隠された十字架-法隆寺論-ネタバレ②法隆寺が怨霊封じ込めのお寺だとする根拠
藤原氏の関係者に不幸な出来事があれば、なぜか法隆寺が潤う
「法隆寺資財帳(法隆寺の縁起や資財などが記録された文書)」によると、法隆寺のはじめての「食封(へひと/律令制下の給付)」は、647年、山背大兄皇子殺害の実行犯、巨勢徳多と孝徳天皇によるものだそうです。
そして658年、斉明天皇の孫である建皇子(たけるのおうじ)がわずか8歳という年齢で夭折した際にも、法隆寺に食封がありました。生まれつき言葉が不自由な建皇子は、斉明天皇が目の中に入れても痛くない可愛い孫だったようです。
いったん廃止された食封が復活したのは、藤原不比等に次いで不比等を重用していた元明天皇が亡くなった翌年の722年。
この食封は5年で終了しますが、藤原四兄弟が天然痘の大流行で全員亡くなった翌年の738年に「永年食封」がくだされました。
そんな状態でも、聖武天皇は736年2月に遣新羅使を派遣し、737年に帰還した一行が平城京にウイルスを持ち込み、全国的な大流行となったようです。
この疫病の蔓延により、聖武天皇はますます仏教の信者となり、東大寺と盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう/奈良の大仏さん)を建造しました。
聖徳太子の怨霊を閉じ込める(?)中門と不吉な偶数
梅原氏によると、法隆寺の中門は「四間」であり、このような偶数の門はほかには存在しないそうです。門の真ん中に柱があり、聖徳太子の怨霊を外に出さないようにしているとか…。
建築学的にも不便であるにもかかわらず法隆寺は、講堂が六間、金堂の二階が四間、塔の最上階も二間の偶数になっています。
怨霊鎮魂の神社とされている出雲大社の社殿や、同じく聖徳太子ゆかりの四天王寺、蘇我氏の元興寺など、少数の寺院のみが、偶数の間を採用しているそうです。
梅原氏によれば、偶数は陰の数であり死の数。一方奇数は、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日が「節句の日(めでたい日)」として祝われてきたことからもわかるように、正(生)の数ということだそうです。
救世観音が安置されていた「夢殿」は、怪僧・行信が造った聖徳太子の墓
行信は、山背大兄皇子が火を放った斑鳩宮の跡地に、法隆寺東院伽藍を創建した人物。東院にある夢殿には、「行信僧都坐像」や1200年もの間、誰の目にも触れることの無かった「救世観音」が安置されています。
梅原氏の説では、739年に建立されたとされる夢殿は、それより120年も前に死去している聖徳太子の墓で、次々に兄弟4人を天然痘で亡くした光明皇后が聖徳太子の怨霊をおそれて、怪僧、行信に頼み、建立したということです。
光明皇后とは、藤原不比等と橘三千代の娘で、聖武天皇の皇后。聖武天皇は、文武天皇と藤原不比等の娘、宮子の間に生まれた第一皇子です。
行信は、745年、「厭魅(えんみ/まじないで呪い殺す)」の罪により下野(しもつけ)の薬師寺に流されることになります。
頭に釘が打ちつけられている秘仏『救世観音』は聖徳太子
1884(明治17)年夏、文部省図画調査会委員に任命されたフェノロサと岡倉天心が、長期の交渉の末、夢殿厨子と救世観音の回扉に成功しました。
秘仏の入っている厨子を開けると天変地異が起こり、寺が崩壊するとの言い伝えを信じていた僧たちは、いっせいに逃げ出したそうです。
フェノロサと天心の目の前には、500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれた立ち姿の仏像がありました。布をほどくと舞い上がった埃のなかに「驚嘆すべき無二の彫像」が現れたそうです。
この救世観音は恐るべきことに、光背が大きな釘で頭に直接打ち付けられていました。
梅原氏によると、仏像の光背は、別に台座をつくるか、支え木をつくってくっつけるもので、仏像の頭の真ん中に釘をうつということは、「呪詛の行為であり、殺意の表現」だとのこと。
もちろん、これも行信によるものだと考えられています。法隆寺の僧侶、顕真(けんしん)の「聖徳太子伝私記」には、「この仏師造り畢(おわ)りて、久しからずして死に畢る。その所以を知らざるの者なり」と記されているそうです。
救世観音の御開帳は、毎年(春)4月11日~5月18日:(秋)10月22日~11月22日の年2回になっています。
2021年は聖徳太子の1400年御遠忌(ごおんき)の年
「聖霊会(しょうりょうえ)」は、聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に行われる法要。来年2021年は、聖徳太子没後1400年目の「御遠忌(ごおんき)」にあたります。
50年に1度の法要なので、多くの人にとっては一生に一度のチャンスでしょう。ぜひ、見学してみたいものですね。
梅原氏が『隠された十字架ー法隆寺論ー』を執筆していたのは、1350年忌の1971年でした。前日に急遽、50年に1度の聖霊会の見学を決め参加されました。なんだか運命的なものを感じますね。
「聖霊会」は3日間続きますが、クライマックスは「蘇莫者(そまくしゃ)」の舞。白く長い毛の間からギラギラした眼が光り、一見怨霊のように見える蘇莫者は、蘇我の莫(な)き者、つまり、蘇我一門の亡霊であり、蘇我一門の精神的代表者である太子の霊であっても不思議ではないと梅原氏は語ります。
隠された十字架-法隆寺論-とは
哲学者、梅原猛氏の「隠された十字架ー法隆寺論ー(新潮社)」を少しだけご紹介しました。600ページ近くもある長編エッセイであり、とにかく登場人物が多いので、読破するのはなかなか大変でしたが、非常にユニークな視点で書かれた面白い本でした。
法隆寺が聖徳太子の功績をたたえるお寺なのか、怨霊を鎮める祟り寺なのかは、意見のわかれるところでしょうが、「天満宮」が後者の目的で建立された神社であることに、異論を唱える人はまずいないでしょう。法隆寺はどうなのでしょうね。
藤原氏の関係者を襲う不幸な出来事すべてが、聖徳太子の「祟り」だとは思えませんが、奈良時代の人々は令和を生きる私たちよりもずっと、「怨霊」というものを恐れていたのは確かだと思います。
名称 | 聖徳宗総本山 法隆寺 |
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住所 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 |
電話番号 | 0745-75-2555 |
拝観時間 | (2/22~11/3)8:00~17:00(11/4~2/21)8:00~16:30 |
拝観料金 | 一般1,500円・小学生750円 |
交通アクセス | JR法隆寺駅より徒歩20分ほか |
公式サイト | http://www.horyuji.or.jp/ |