「卑弥呼(ひみこ)」といえば、みなさんご存じのように「弥生時代の末期、倭国(わこく・現在の日本)の女王さま」だった人なのですが、古代中国の歴史書にしか登場せず、九州の人なのか近畿の人なのかさえ、いまだに論争中ですよね。
それどころか、北陸や中国地方、東北地方、さらにはエジプトやジャワ島の人だったという説まであります。
今回は、そんなミステリアス美女、「卑弥呼のトリビア」を集めてみました。
卑弥呼については、おもに『三国志・魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で紹介されているのですが、この書は3世紀末の古代中国の歴史書であり、外国である「倭国」について正確に伝えるには、当然のことながら無理があります。
そのため、膨大な数の「仮説」が存在するわけなんですね。
- 『邪馬台国・女王卑弥呼』の基礎知識
- 邪馬台国&女王卑弥呼トリビア
- 卑弥呼と交流のあった「魏」は、「隋」や「唐」よりずっと昔
- 歴史で習った「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印は卑弥呼の金印ではない
- 金印だけではなく、銀印や銅印、木印まであった!さらに、金メッキ印まで…!
- 倭国からの遣魏使・遣晋使はなんと11回~13回!魏からの国使は2回!
- 外国の歴史書に個人名で登場する倭人は「卑弥呼」が最初ではない!
- 卑弥呼が君臨する「倭国」の人口はなんと!180万人以上?!
- 倭国と女王卑弥呼は魏にとても気に入られていた!
- 弥生時代の倭国の海運力はすごい!
- 三国志・魏志倭人伝には、一度も邪馬台国(臺国)という地名は登場ない
- 帯方群(現在のソウルあたり)から邪馬台国までの距離は48,000km?
- 1,000人もの侍女集団?
- 邪馬台国の女王卑弥呼はおばあちゃん?
- 倭国には、百歳や九十、八十歳の者もいる?!
- 侏儒国(しゅじゅこく)、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)など、個性的な国が次々登場!
- 邪馬台国の女王卑弥呼っていったい誰?
- 邪馬台国って結局どこ?
- すべての説をひっくり返す「逆転列島倭地理観」
『邪馬台国・女王卑弥呼』の基礎知識
卑弥呼の統治期間は?
西暦70年ごろ、倭国のリーダーが「奴国(なこく)」から「邪馬台国」に移行し、連合国家が成立しました。卑弥呼の統治期間は190年前後~248年ごろまでの約60年間とされています。
卑弥呼が登場する前の倭国には、男性の王さまが君臨していましたが、その間の7~80年は国が乱れていました。
卑弥呼の家族構成は?
未婚。姉一人、弟一人の二人家族。弟が政治的なサポートをしていたとされています。
卑弥呼の職業は?
倭国の都、邪馬台国の女王であり、巫女、シャーマン。「鬼道」を使い国を治めていました。「鬼道」というのは、道教や占星術のことなど諸説あります。
神霊と交感し神託を受け、亀の甲羅を焼いてその割れ方で吉凶を占う「亀卜(きぼく)」や、亀の代わりに動物の骨を焼く「骨卜(こつぼく)」を行っていたとされています。
ちなみに「亀卜」は、中国では殷の時代から、日本でも縄文時代から対馬で行われていました。
また卑弥呼は「拍手(かしわで)」の礼法にのっとって礼拝をしていたようです。
卑弥呼が統治する倭国とは?
倭国のなかで「魏」と交流していた国は30か国ありました。そのうち、所在地が解明されている国は、長崎県の「対馬」と「壱岐」、佐賀県北西部の「東松浦半島」、福岡県北西部の「糸島半島」と「福岡平野」に存在した6か国。
そしてもちろん、倭国の都は女王・卑弥呼が君臨する「邪馬台国(邪馬壹国)」です。
30か国のうち、卑弥呼の支配下にある国は29か国(「奴国(なこく)」という国が2つ)。男性の王さまが君臨する狗奴国(くなこく)のみが邪馬台国と対立状態にありました。
卑弥呼が朝貢した「魏」とは?
中国の三国時代に華北を支配していた王朝で、首都は「洛陽(らくよう)」。西暦220年から265年の45年しか続きませんでしたが、日本でも「(魏・呉・蜀の)三国志」で有名です。
ちなみに242年ごろの魏の人口は約760万人と伝えられています。
「邪馬台国」は、「三国志」のなかの「魏志倭人伝」に登場します。卑弥呼の倭国が朝貢していた当時の魏の皇帝は、二代目の「明帝/曹叡(そう えい)」でした。
景初(けいしょ)2(西暦238)年の朝貢のスケジュールは?
卑弥呼の倭国は、西暦238年にはじめて魏に朝貢します。「朝貢」とは、おもに中国の皇帝に、周辺諸国が貢物を献上し、皇帝側はその恩恵として「下賜品(かしひん・返礼品)」を持たせて帰国させることをいいます。
景初2(西暦238)年6月「帯方(たいほう)郡(204年~313年)」とは、現在のソウル近郊に置かれた古代中国の軍事・政治・経済の地方拠点)
倭の朝貢使者、帯方郡に到着、明帝への朝貢を申し出る。(※238年11月頃
倭国の使者が魏の都・洛陽に到着。238年12月
239年1月1日。享年36歳(34歳説もあり)。 明帝崩御
正始元(西暦240)年(きゅうじゅん)」は、使者を倭国に派遣。
帯方郡の「太守(=長官)・弓遵卑弥呼は243年にも魏に使者を送り、奴隷や布などを献上しています。
明帝、暗殺説
あまりにも突然の明帝の死。もちろん、暗殺説もあります。明帝は12月8日に発病したとされていますが、そのとき、巫女に呪水で治療してもらうのですが、効果がないため、彼女を殺害します。
呪水を飲んだために明帝の具合が悪くなったとの説もあり、毒を入れた黒幕は(西)晋の礎を築いた「宣帝/司馬 仲達(ちゅうたつ)」だとする説もあります。さらに仲達と卑弥呼が結託していたという説まであるようです。
確かに呪水が「普通の水」で治療効果がなかったとしても、すぐに巫女を殺害してしまうとは、考えにくいですよね。
邪馬台国&女王卑弥呼トリビア
卑弥呼と交流のあった「魏」は、「隋」や「唐」よりずっと昔
歴史で習った「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印は卑弥呼の金印ではない
中元2(西暦57)年、後漢の都・洛陽に、奴国が奉賀朝貢(洪武帝の皇帝即位30年)し、洪武帝から印綬を授かりました。
福岡県志賀島から出土した金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」はこのときに貰ったものです。当時は奴国が倭国のリーダー的国家でした。卑弥呼の金印なら「親魏倭王(しんぎわおういん)」と刻印されているはずですよね。
そして、西暦70年ごろ、倭のリーダー国が奴国から邪馬台国に移行し、連合国家が成立します。
金印だけではなく、銀印や銅印、木印まであった!さらに、金メッキ印まで…!
魏に派遣された卑弥呼の臣下たちは、魏朝から官職が与えられました。金印や銀印などは「官印」であり、官職の公的証明となります。
魏に派遣された卑弥呼の臣下「難升米(なしめ)」ら10名は、「銀印」を授かっていると伝えられています。お察しのとおり、身分に応じて、銅印、木印と安価な素材となっていくわけですね。
後で述べますが、10名もの臣下に銀印が授与されるのは破格の扱いになります。歴史の教科書に登場した「漢委奴国王」の金印は純金製でしたが、チベット系遊牧民やモンゴル系遊牧民に授与された印は、金メッキ製のものが多かったようです。
倭国からの遣魏使・遣晋使はなんと11回~13回!魏からの国使は2回!
倭国は、238年の初遣魏使からのわずか30年間で、200年もの間に日本国が「遣唐使」を送ったのと同じくらいの回数の「遣魏使」を派遣しています。初期の頃のみですが「晋」にも朝貢していたと伝えられています。(※ もちろんこちらも、諸説あります)
「晋(265年~420年)」とは、「司馬炎」が魏朝最後の「元帝(在位260年~265年)」から禅譲を受けて建国した国です。ちなみに「禅譲」というのは、血縁者でない者に地位を譲ることを意味します。
魏に使いを送った倭国側の女王は、もちろん卑弥呼と後継者の壹與(いよ)でした。
13歳のカリスマ、壹與(いよ)
壹與とは、13歳で卑弥呼の跡を継いだ後継者。80代の卑弥呼、13歳の壹與。どちらも抜群のカリスマ性ですよね。
卑弥呼の死後、一時男性の王さまが跡を継いだものの、ふたたび国が乱れ、13歳の壹與が混乱を治めたといわれています。西暦248年ごろのことでした。
そして、壹與は同年、魏に使節を送ったという説があります。すごい女の子ですね。
ちなみに壹與は、卑弥呼の「宗女(ソウジョ)」だと伝えられていますが、宗女とは、現在でいう「親戚の子」という意味です。
同宗(一族・同姓・姓)の女、姪、一族の女、一族の世継ぎの娘(大漢和辞典)
外国の歴史書に個人名で登場する倭人は「卑弥呼」が最初ではない!
永初元(107)年にも、「帥升(すいしょう)」が、後漢に使者を派遣し、160人もの生口(奴婢・奴隷)を献上しています。帥升が外国の史書に名が残っている最初の人物であり、卑弥呼は2人目になります。
卑弥呼が君臨する「倭国」の人口はなんと!180万人以上?!
魏志倭人伝によると、倭国は主要8か国だけでも15万戸あったとされます。鬼頭 宏氏の説によれば、3~5世紀の住居跡から推定した場合、1世帯が平均10人家族。
すると、主要8か国の合計が159万人となり、戸数の記載がない21か国を各千戸と見積もれば、卑弥呼傘下の倭国の総人口は180万人以上となるそうです、
倭国と女王卑弥呼は魏にとても気に入られていた!
朝貢では、中国側が旅費、滞在費を負担するのは通例でしたが、ボディガードまで付けて、使者を都まで送り届けるのは異例中の異例でした。
当時は、中国国内に3人の皇帝が同時に立つ「魏呉蜀(ぎごしょく)・三国時代」。そして、遼東の地で自立を宣言し、自ら「燕(えん)王」を名乗った「公孫 淵(こうそん えん)」も、二枚舌外交で「呉」とも通じ、「呉」と「蜀」も同盟関係にありました。
そんな四面楚歌ともいえる「魏」にとって、海運力のある「倭国」の軍事的貢献はありがたかったようです。卑弥呼が魏と国交を始めた238年以降、呉は北上を停止しています。
邪馬台国の方も、なかなか「狗奴国(くなこく)」の制圧ができず、狗奴国の背後には「公孫氏」がいたため、倭国にとっても魏は大切な同盟国だったようです。
西暦238年の朝貢時、卑弥呼から献上したものは、男性の奴婢(奴隷)4人、女性の奴婢6人、25mほどの麻布のみでしたが、魏皇帝から卑弥呼に贈られたものは、金印、金、錦、白絹、100面もの鏡、刀など大変豪華なものでした。
現代人の感覚では、「奴隷を贈った」というところには引っ掛かりますが、倭国が魏にとって大切なパートナー国であったことがよくわかるエピソードですよね。
「鬼」道を使い政治を行っていた「倭国」の卑弥呼。そして、魏は「委」と「鬼」を組み合わせた国。両者には浅からぬ縁(えにし)を感じます。
弥生時代の倭国の海運力はすごい!
弥生時代の船といえば、巨木をくりぬいただけの「丸木舟」を想像してしまいがちですが、意外にも「準構造船」や現在の船に近い「構造船」を使っていたようです。
ちなみに準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側(げんそく=ふなべり)板や竪板(たていた)などの船材を加えた複雑な構造の船のことをいいます。
準構造船と構造船は丸木舟とは違い、後世まで「そのままの形」では残りにくいため、ほとんど出土されることはないのですが、すでに存在していたことは、形象埴輪や銅鐸の刻印で確認できます。
西暦106年に160人もの生口(奴婢・奴隷)を献上した朝貢の規模を見ても、倭国は漢代にはすでに近代的な船を使っていたようですし、662年の「白村江の戦い(はくすきえのたたかい)」では、1000艘にもおよぶ大艦隊を送っています。
三国志・魏志倭人伝には、一度も邪馬台国(臺国)という地名は登場ない
「邪馬台国」の「台」は「臺」の代用なのですが、三国志・魏志倭人伝には、一度も「邪馬臺国(やまたいこく)」という地名は出てきません。
倭国の都は「邪馬壹国(やまいちこく)」です。そう、倭国は連邦国家であり、宗主国は「邪馬壹国」となっています。卑弥呼は、「邪馬壹国の女王」であり、「倭国王(倭王)」なのです。
では、なぜ「邪馬壹国」が「邪馬臺国」になったのでしょうか? 江戸時代の国学者の解釈によれば、古代の中国人には「大和(やまと)」の発音が、「邪馬台(臺)(やまたい)」に聞こえ、「壹(いち)」になってしまったのは、「臺(だい)」を書き間違えたのではないだろうかということでした。
確かに少し似ているような気もしますが、卑弥呼の後継者が改号した可能性も捨てきれず、残念ながら現在では、仮説を立てることしかできません。
帯方群(現在のソウルあたり)から邪馬台国までの距離は48,000km?
漢から魏時代の「1里」の長さは約400mほどとされていましたので、12,000里をkmに換算すれば、約48,000kmとなり、まったく参考になりません。
ところが魏王朝は、「短里」とよばれる周時代の単位を復活させようと試みていたという説があり、その場合、「1里」の長さは約76mになります。
この単位を使い計算しなおすと、倭国の玄関口「末盧国(まつろこく)」に比定される「東松浦半島」の位置も矛盾がなく、女王国「邪馬台国」は、福岡県福岡市近辺にあたるそうです。
ちなみに「随書・倭國」によると、倭国では、「里」などの距離を表す単位はなく、目的地までは日数で表していたと書かれています。
1,000人もの侍女集団?
卑弥呼は1,000人もの「侍女(じじょ」をはべらせていたとされますが、女性ひとりの身の回りの世話に1,000人もの召使が必要だとは考えられませんので、この1,000人は「巫女集団」だったのではないでしょうか。
ちなみにバチカン市国の城壁内で生活しているカトリックの修道者や司祭は830人(通勤の職員を合わせれば3,000人)ほど、伊勢神宮の職員は約600人です。
ちなみに伊勢神宮の巫女さんの募集は「高校の新卒者のみ」。定年は23歳。未婚であることが条件だそうです。卑弥呼の侍女にも採用条件があったのでしょうか?
卑弥呼のもとに出入りできる男性は、卑弥呼の弟と食事係の男性2名のみでした。おそらくその食事係も親族なのでしょう。ちょっと淋しいような気もしますが、「巫女さん」である以上は仕方がないのでしょうね。
邪馬台国の女王卑弥呼はおばあちゃん?
魏志倭人伝を普通に読めば、240年に魏の使いが訪倭し卑弥呼に謁見したとき、卑弥呼は70歳前後の高齢女性ということになります。
今でこそ、「おばあさん」などとはとうてい呼べない若々しい女性がいくらでもいますが、卑弥呼の時代は弥生時代末期。当時の70歳前後はかなりの「おばあさん」だったと推測されます。
魏志倭人伝にも「年すでに長大なるも」と記述されているので、通説では高齢者だということになっていますが、「長大」とは30代半ばを指す言葉だという説もあるようです。
魏志倭人伝における倭人のくだりは、1年に2回年を取る「2倍暦年」を採用しているという説もあります。つまり倭国が騒乱状態だった7~80年は、35年~40年程度となります。
これは「古事記」にも当てはまり、神武天皇の享年137歳は69歳、最も長命だったとされる崇神天皇の享年168歳が84歳となり、きわめて常識的な年齢になります。
倭国には、百歳や九十、八十歳の者もいる?!
侏儒国(しゅじゅこく)、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)など、個性的な国が次々登場!
魏志倭人伝には、邪馬台国からさらに「数千里海を渡った場所」に、侏儒国、裸国、黒歯国があると書かれています。
「侏儒国」は、邪馬台国の四千里ほど南方にあるとされ、背がとても低い人たち(身長90cm~130cmほど)が住んでいるとされる国です。そしてこの「侏儒国」は、現在の種子島ではないかといわれています。
実際に、種子島で発掘された弥生時代から古墳時代にかけての人骨の調査では、古代種子島の住民の身体的特徴は、侏儒国の人たちの特徴にほぼ合致していたということでした。
「裸国」は、「船で1年ほど進むと到着する場所」にあるそうですが、方角さえ不明です。太平洋上に浮かぶ南の島のことでしょうか。
インドネシアでは「キンマ」とよばれるガムのようなものを噛む習慣があり、話をするときに赤黒い汁を出すことがあるので、「黒歯国」はインドネシア付近ではないかとされています。
邪馬台国の女王卑弥呼っていったい誰?
神功皇后(じんぐうこうごう)説
神功皇后は、第14代天皇である「仲哀(ちゅうあい)天皇」の皇后で、「応神天皇」の母親。熊襲(くまそ)征伐や、新羅、百済、高麗を服従させた(三韓征伐)勇ましい女性。
江戸時代には、この神功皇后が卑弥呼だと考えられていましたが、卑弥呼は未婚で子どもがいないので、かなりキャラクターが違いますよね。
神功皇后は、13歳で卑弥呼の跡を継いだ後継者の「壹與(いよ)」だとする説もあります。この説は、「邪馬台国と大和朝廷と直結している」とした場合に有力な説となります。
また、天皇家の祖先(大和王朝)が、九州から畿内に遷都したという説「邪馬台国東遷説」を唱える論者も多くいます。
『旧唐書』には、日本が倭国を併合したとある
「旧唐書(くとうじょ)」は、945年に完成したとされる歴史書です。
東夷伝では、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立して記述されていて、672年の壬申の乱(じんしんのらん)で、「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立した可能性があるとされています。
天照大神(アマテラスオオミカミ)説
天照大神も未婚で弟(スサノオ)がいることが卑弥呼との共通点。天照大神の別名は「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」で、この「ヒルメ」の「ル」は「ノ」の古語、つまり「日の女」となります。
日の女とは「太陽に仕える巫女」という意味なので、卑弥呼(陽巫女)にぐんと近づきますね。
また、卑弥呼が亡くなったとされる付近の247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきていた可能性があり、これは「岩戸隠れの伝説」に通じるものがあります。
卑弥呼が天照大神だとすると、神功皇后と同じ「邪馬台国東遷説」が正しいということになりますね。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
「百襲姫(ももそひめ)」は、日本書紀に登場する孝霊天皇の皇女。親戚筋にあたる崇神天皇(すじんてんのう)に神意を伝える巫女の役割を果たしていたと伝えられています。
百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。
百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。(倭迹迹日百襲姫命-wikipedia)
百襲姫の「箸墓」が、有力候補地である「纏向遺跡(まきむくいせき)」の中にあり、後円部の大きさは直径約160m、これは魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の説明と一致しています。
箸墓古墳の築造年代についても、卑弥呼の没年とされる248年頃に近い、3世紀の中頃から後半と見る説が一般的です。
邪馬台国って結局どこ?
福岡県春日市『須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)』
「帯方群」からの距離や方角ではなく、倭国から魏への献上品と魏からもたらされた下賜品(かしひん)に着目してみましょう。弥生時代後期の「絹織物(錦)」が集中して出土しているのは「九州」になります。
具体的にいえば、福岡市「宮の前遺跡」と「唐原遺跡」となり、佐賀県の「吉野ケ里遺跡」と福岡県甘木市の「栗山遺跡」からも出土例があります。
古代絹の研究の第一人者である布目 順郎氏によると、養蚕業はこの時代、北九州が独占していたようです。
また、魏志倭人伝には、倭国兵士が「矛(ほこ)」「竹箭(ちくせん/武器・狩猟具)」を用いていると記述されていますが、これらもまた卑弥呼の時代のものは北九州でのみ出土しています。
とくに福岡県春日市の「須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)」には、南北2km、東西 1kmの範囲に列島から出土する60%以上の矛や竹箭の鋳型が見つかっています。
佐賀県神埼郡『吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)』
50haにもおよぶ「吉野ケ里遺跡」には、弥生時代の集落跡があります。
発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。(吉野ケ里遺跡-wikipedia)
「倭国大乱」というのは、卑弥呼が登場する前、男性の王さまが君臨していた頃の内戦のこと。吉野ケ里遺跡には、勾玉や管玉などのアクセサリーや銅鏡など、卑弥呼時代の女性の持ち物が多数出土しており、こちらも邪馬台国の有力候補地とされています。
奈良県桜井市『纏向遺跡(まきむくいせき)』
纏向遺跡は、「百襲姫(ももそひめ)」のものとされる「箸墓」のある遺跡で、ここは一般の人々が暮らしていた集落ではなく、祭祀用と考えられる建造物群や祭祀道具が多数出土されています。つまりここは宗教都市だったようです。
そのため纏向遺跡は卑弥呼の「宗教的出張所」という説もあり、こちらも卑弥呼ゆかりの地のような気がしますね。
すべての説をひっくり返す「逆転列島倭地理観」
サイエンスエンターテイナーの飛鳥 昭雄先生によれば、2000年前、日本列島は現在の位置にはなく、九州が北にあり、九州を中心に時計回りに90度回転していたとか…。
そう考えれば、すべてに辻褄が合うとか…。FBI超能力捜査官として知られている「ジョー・マクモニーグル氏」の透視も、かなりの割合で飛鳥説と合致しているとか…。
混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)も南北逆
1402年に李氏朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図」は、日本列島が南北逆に描かれていました。実際に日本列島が南北逆だったかどうかは不明ですが、古代中国では日本列島を南北逆に考えていた可能性もあります。
飛鳥理論では、卑弥呼の墓は「纏向遺跡」、卑弥弓呼の墓は静岡県沼津市の「高尾山古墳」
「高尾山古墳」は全長62.2m、高さ5m。古墳時代最初期の東日本最大級の前方後方墳です。築造は230年ごろ、被葬者を葬ったは250年ごろとされています。
まさに、女王・卑弥呼が崩御されたころと合致しますね。ただし、飛鳥説では、卑弥呼の墓は「纏向遺跡」であり、「高尾山古墳」は卑弥呼と敵対していた狗奴国の「卑弥弓呼(ひみここ/ひみくこ)」の墓ということになっています。
2020年3月現在、沼津市では、都市計画道路(沼津南一色線)の建設予定があり、道路と古墳との両立について協議されています。
嚴著)」 「邪馬台国はどこですか?(鯨 統一郎著)」 「 失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎 (飛鳥 昭雄著)」を参考にさせて頂きました。
「日本朝廷により封印された卑弥呼の謎と正体(斉藤 忠著)」 「邪馬台国はどこにあったのか(平本今回は、古代日本最大のミステリー、「邪馬台国の卑弥呼の謎」に迫ってみました。邪馬台国と卑弥呼に関しては星の数ほどの仮説があり、それぞれの説を唱える論者たちの卑弥呼への愛と情熱がひしひしと伝わってきます。
江戸時代から、新井白石が「大和説」、本居宣長が「九州説」を唱えていました。ビッグネーム2名の意見が真っ二つに分かれていたくらいですから、管理人も当然、卑弥呼がどこの誰なのかは依然として謎のままです。
けれども弥生時代末期には、卑弥呼同様、キラキラと輝く女性が倭国中にいたのではないかと感じました。
これを読んでくださった方がおひとりでも、卑弥呼に興味を持ってくれたらいいな~と思います。