2020年3月26日、歴史の教科書にも載っている「高松塚古墳の飛鳥美人」の壁画が修復され、美しくよみがえったそうです。
今回は、混同してしまいがちな「高松塚古墳」と「キトラ古墳」を比較し、両者の違いを探ってみたいと思います。
そして両古墳には、おそろしい「呪い」の噂があるようなので、あわせて調べてみます。
「飛鳥美人」がよみがえる!高松塚古墳の壁画修復!
文化庁は26日、奈良県明日香村の国宝、高松塚古墳壁画(7世紀末~8世紀初頭)の修復作業が終了したと発表した。【時事通信社】
「飛鳥美人」として知られる奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画「女子群像」が、2020年3月26日、12年以上にもおよぶ修復作業を終え、鮮やかによみがえりました。
杜撰な管理が元でカビが生えるなど、劣化が進んでいた「女子群像」の修復には、長い年月がかかりましたが、女性の顔や衣服が鮮明になり、見違えるように美しく生まれ変わったようです。
「飛鳥美人」が発見されたのは1972年。この「女子群像」のほか、方角の守り神である、青龍(東)、白虎(西)、玄武(北)、(※ 鎌倉時代の盗掘の際、南壁にあるはずの『朱雀』は欠損)の四神など、極彩色の壁画と豪華な副葬品が発見され、新聞の一面を飾りました。
高松塚古墳とキトラ古墳の違いを比較してみた!
飛鳥美人の壁画は、「高松塚古墳」のなかで発見されました。
すぐ近くにある同じような形の「キトラ古墳」との違いを比較してみましょう。
ちなみにキトラ古墳と高松塚古墳は徒歩圏内です。ほかの名所旧跡と一緒に、自転車で明日香村をまわってみてはいかがでしょうか?
高松塚古墳 | キトラ古墳 | |
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名称の由来 | 江戸時代、古墳の頂上に松の木が生えていた。(江戸時代に描かれた絵より) | 古墳内に描かれている亀と虎で「亀虎(キトラ)」、または、古墳南側の地名「北浦」など諸説あり。 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内) | 奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山 |
築造 | 7世紀末から8世紀初め頃 | 7世紀末から8世紀初め頃 |
墳丘形式 | 二段式の円墳 | 二段式の円墳 |
大きさ | 直径23m(下段)×18m(上段)×高さ5m | 直径14m(下段)×9.4m(上段)×高さ3.3m |
発掘 | 1972年3月1日~ | 1983年11月7日~ |
被葬者 | 不明/天武天皇の皇子(忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子)・石上 麻呂(いそのかみ の まろ)・百済王禅光・高句麗の王族など、諸説あり ※ 40~60歳代の男性 | 不明/天武天皇の皇子(弓削皇子、高市皇子)・阿倍御主人(あべ の みうし)・百済王昌成(しょうじょう)など、諸説あり ※ 40~60歳代の男性 |
史跡の認定 | 特別史跡(古墳)・国宝(壁画)・重要文化財(出土品) | 特別史跡(古墳)・国宝(壁画)・重要文化財(出土品) |
石室の形 | 二上山産凝灰岩(ぎょうかいがん)の横口式石槨(せっかく) | 二上山産凝灰岩(ぎょうかいがん)の横口式石槨(せっかく) |
石室の寸法 | 103cm×113cm×265cm | 100cm×120cm×240cm |
壁画 | (東壁)女子群像・青龍・男子群像/(西壁)女子群像・白虎・男子群像/(南壁)欠損/(北壁)玄武 | (東壁)青龍/(西壁)白虎/(南壁)朱雀/(北壁)玄武 ※ 獣頭人身十二支像のうち、子、丑、寅、午、戌、亥のみ確認可 |
天上画 | 星宿図(簡略)※日像と月像は欠損 | 天文図・日像・月像(精密) |
副葬品 | 海獣葡萄鏡・ガラス製玉・琥珀製丸玉・金銅製金具・銀荘唐様大刀金具類・土器類(土師器、須恵器)ほか | 金属製品・琥珀玉・ガラス製品・漆塗製品残欠・石室石材残欠・土師器ほか |
不審死 | 少なくとも5名 | たぶん、なし |
関連施設 | 高松塚壁画館 | キトラ古墳壁画体験館・四神の館 |
江戸時代のものとみられるこのような絵が残されているようですが、「文武天皇御陵」と記されており、当時この古墳は文武天皇のお墓だと考えられていたことがわかります。小山の上に松が植えられていますね。
高松塚古墳の呪いって?
「高松塚古墳」には、「呪い」「祟り」があるといわれています。
実際に数名の関係者が不審死し、当時の週刊誌の記事にもなっていたようです。
高松塚古墳の呪い?犠牲者① 第一発見者の村人
1962年ごろ、明日香村・上平田地区の村人がしょうがを貯蔵しようと穴を掘っていたところ、鍬に切石が当たり、この場所に「何かがある」のを発見しました。
この後、精神のバランスを崩した村人は、首つり自殺を図りましたが家族に見つかり、このときは未遂に終わりました。
ところが、1968年11月25日、今度は農薬を飲んで自殺してしまいました。まだ発掘作業すら始まっていない時代のことです。
ちなみにこれは、1973年に発生した事件だという説もあります。どちらにせよ、高松塚古墳の第一発見者の村人は亡くなっています。
高松塚古墳の呪い?犠牲者② 明日香村の史跡観光課長
明日香村の史跡観光課長は、高松塚古墳の発掘に尽力していた一人でしたが、壁画が発見された1972年3月21日のちょうど2か月後の5月21日、突然胸の痛みをうったえ、苦しみだして死亡しています。
死因は肺がんだったそうですが、21日という日付の一致と、それまで元気だった42才の突然の死に、関係者たちは大変驚きました。
高松塚古墳の呪い?犠牲者③ 前助役夫人
高松塚古墳の脇でみかんの栽培をしていた前助役夫人が、8月21日に体調不良で倒れ、2日後に布団の中で冷たくなっていました。
この女性は農作業中に、古墳を傷つけたともいわれています。
高松塚古墳の呪い?犠牲者④ 古墳のある上平田地区の自治会長
さらに、翌年、1973年8月21日、高松塚古墳のある上平田地区の自治会長が暴走車にはねられ事故死しました。
高松塚古墳の呪い?犠牲者⑤「女子群像」を模写していた画家
壁画に描かれていた飛鳥美人を模写していた日本画家が、完成披露パーティーの帰りに車に跳ねられ死亡しました。
高松塚古墳の謎
高松塚古墳は、鎌倉時代に一度盗掘されているのですが、不思議なことに価値のある「三種の神器」の鏡(海獣葡萄鏡)と刀(太刀装飾金具ー鞘のみ)と玉(ガラス玉・琥珀玉)はそのままでした。
副葬品に「三種の神器」があるということは、被葬者は百済や高句麗の王さまではなく、皇室関係者と考えられます。
なぜ、刀身のみが盗まれ豪華な鞘が残っていたのでしょうか。
恐ろしいことに、被葬者には頭蓋骨と下顎骨がありませんでした。
さらに、南側の壁に描かれていたはずの「朱雀」と東壁と西壁の「日像と月像」が削られていました。
そして、天井の星宿図には、「天皇」の象徴である「北斗七星」が、元々描かれてはいませんでした。
星宿図(せいしゅくず)とは、古代中国の思想に基づき、中央に「天極(てんぎょく)」と「四輔(しほ)」、周辺の東西南北に「昴(すばる)」など七つずつ二十八宿(星座)を描いた天文図。
本来は174の星があるはずだが、高松塚では、72年の発見時に約1メートル四方の範囲に125の星とその跡が確認された。(星宿図―コトバンクより)
この高松塚古墳は、江戸時代、怨霊を封じ込めた「祟り塚」と恐れられ、供養されていたようです。
また、古墳の正式な番地は、「上平田4444番地」。壁に描かれている男女も4名のグループが4つですね。
今ではあまり聞きませんが、日本で「4」は、「死」を連想させる縁起の悪い数字だといわれることもありますよね。
有力説の一つ/黄泉の王(おおきみ)―私見・高松塚(梅原 猛著)
大宝元年(701)の元旦、宮廷では、四方に四神と月日の旗を立て、盛大な朝賀の儀式がもよおされた。大宝元年といえば、「大宝律令」が制定され、律令の事実上の制定者藤原不比等が、独裁的権力を確立する第一歩をかためたときである。
この塚では、この朝賀の儀式と同じように、四神、月日の旗がたち、十六人の男女が、今しも朝賀の儀式を行おうとしているものである。しかし、この暗い狭い塚の中で、行われんとしている朝賀の儀式には、決定的な欠如が存在していたのである。
この儀式の主役には頭がなく、この人物は三種の神器らしいものをもっているが、刀には刀身がなくまた、彼をとりまく世界の月日は欠け、玄武には頭なく、星宿には、天皇のしるしの北斗七星が欠けていたのである。(黄泉の王(おおきみ)―私見・高松塚)
梅原氏の説によると、埋葬の時期は、藤原京の造営開始から平城京遷都の間であり、この時期に亡くなった皇族は、草壁皇子、川島皇子、高市皇子、弓削皇子(ゆげのみこ)、忍壁皇子、大伴御行、多治比嶋、安部御主人(みうし)、紀麻呂の9人。
そして、四神月日の儀式が行われるようになったのは、大宝元年(701)年から。被葬者は火葬されておらず、朝廷で火葬が行われるようになったのは、702年12月に亡くなった持統天皇が最初です。
つまり、梅原氏の説では、この古墳が築造されたのは、700年ごろとするのが妥当だそうです。
「弓削皇子」と文武天皇の后であったとされる紀皇女のラブストーリー
梅原氏はまた、被葬者の候補である「弓削皇子」が高松塚の主なのではないかという説を唱えています。
弓削皇子は「文武天皇(もんむてんのう)」の后であったとされる「紀皇女(きのひめみこ)」と不倫関係であったらしく、彼女を思う歌が万葉集に4首残されています。
弓削皇子は、「万葉集」の第一の歌人とされる「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」と親しかったようです。
梅原氏は「水底の歌 柿本人麿論」で、「人麻呂も朝廷の高官だったが、政争に巻き込まれて処刑された」と仮説を立てています。
そして、「正史」である「日本書紀」に登場しない人物が、「万葉集」には登場する場合が多々あります。
彼らは、反体制派や失脚した人たちだったのでしょう。
祟りを恐れた大和朝廷が弓削皇子を塚に祀る?
紀皇女は、天皇のお后なのだから、二人の関係がバレた場合は当然、八虐の第一である「謀反(むほん)」ということになり、死をもって償わなければなりませんでした。
弓削皇子は身分の高い人物であったため、自害も認められていたことでしょう。
けれども、野心家だった弓削皇子の再生をおそれ、頭を切り離したと考えらます。
とはいえ、「祟り」もおそろしいので、すでにこの世にはいない弓削皇子に、三種の神器を授け、艶やかな女官ら16人に囲まれた「朝賀」の儀式を、石室の壁画に描き、暗くて狭い塚のなかで、自分こそが「天皇」であると、錯覚させようとしたのではないかというのが梅原氏の「私見」です。
ただし通説では、弓削皇子は699年8月21日(文武天皇3年7月21日)、流行病で亡くなったとされています。
史学者の推定では、享年27歳だそうです。
享年27歳だとすると、被葬者の推定年齢(40~60歳代)とはズレてきますが、そもそも梅原説は通説と死因が完全に異なるので、梅原説を採用するのならば、被葬者の年齢は考慮しなくても良いと考えられます。
高松塚壁画館の基本情報
#キトラ古墳 明日香巡りの一部としてキトラ壁画を見に行かれる方はキトラ長めに予定してください。四神の館、天文図下のディスプレイ空間では4面でキトラ壁画、高松塚壁画が細部まで映し出されます。描いた人、保存する人のことなど込み上げて感涙。正直、映像は長いけど、終わるまで見て下さい。 pic.twitter.com/udShYZI2f1
— 興福寺カタチづくる部材 (@BuzaiKohfukuji) January 21, 2017
「高松塚壁画館」には、日本画家の前田 青邨(せいそん)氏らによる壁画の忠実な模写や、石室や副葬品の原寸大のレプリカが展示されています。
また、学芸員やボランティアガイドさんが常駐していますので、受付で申し込めば、詳しい解説を聞くことができます。
名 称 | 高松塚壁画館 |
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住 所 | 奈良県高市郡明日香村平田439 |
電話番号 | 0744-54-3340(高松塚壁画館)・0744-54-2441(飛鳥管理センター) |
休館日 | 年末年始(12月29日~1月3日まで) |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
入場料 | 大人:300円・学生(高大学生):130円・小人(小中学生):70円 ※共通券(壁画間館+石舞台古墳と酒船石遺跡)は大人700円・学生150円 |
交通アクセス | 近鉄吉野線 飛鳥駅下車徒歩15分・国営飛鳥歴史公園館駐車場より徒歩5分・バス停「高松塚」すぐ |
駐車場 | あり(20台) |
公式サイト | http://www.asukabito.or.jp/hekigakan.html |
キトラ古墳壁画体験館・四神の館基本情報
「キトラ古墳壁画体験館・四神の館」では、キトラ古墳壁画の4面マルチ高精細映像や原寸大の石室模型、飛鳥時代の暮らしを再現したジオラマ模型など、ユニークな展示がいっぱい。
石室の作り方を疑似体験したり、タッチパネルで天井に描かれた天文図を学べたりします。
また、古代のガラスや高松塚古墳から出土した海獣葡萄鏡、勾玉などを自分で造る体験プログラム(有料・土日祝・当日受付可)もあります。
また、1階では、石室から取り出され保管されているキトラ古墳壁画の実物を、期間限定で見学することができます。
直近では2020年1月18日~2月16日でした。次回のスケジュールは、こちら(キトラ古墳壁画の公開について)をどうぞ。
かならず事前申請をお忘れなく。現地に電話でお問い合わせください。
施設の周囲には、お弁当を食べたりお昼寝したりできる「四神の広場」や農業体験ができる「農体験小屋・五穀の畑・キトラの田んぼ」、飛鳥の観光情報が得られる「檜隈寺(ひのくまでら)跡前休憩案内所」があります。
名 称 | キトラ古墳壁画体験館・四神の館 |
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住 所 | 奈良県高市郡明日香村阿部山67 |
電話番号 | 0744-54-5105 |
休館日 | 年末年始(12月29日~1月3日まで)※キトラ古墳壁画保存管理施設(1階)は、毎週水曜日閉室 |
開館時間 | 9:30~17:00(12月~2月は9:30~16:30) |
入場料 | 無料 |
交通アクセス | 近鉄吉野線 壷阪山駅より徒歩15分・近鉄吉野線 飛鳥駅より徒歩25分(バスもあり) |
駐車場 | あり(第一と第二あわせて約60台) |
公式サイト | https://www.nabunken.go.jp/shijin/index.html |
黄泉の王(おおきみ)―私見・高松塚(梅原 猛著)
今回は、「高松塚古墳」と「キトラ古墳」の違い、高松塚古墳でささやかれている「呪い」の話、高松塚古墳の被葬者についての梅原 猛氏の大胆な仮説をご紹介しました。
まったくの偶然なのかもしれませんが、高松塚古墳発掘の関係者が少なくとも5名亡くなっています。
高松塚古墳では、被葬者や関係者に対し、真摯な気持ちで向き合いたいものですね。