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邪馬台国とヤマト王権の関係?消えた銅鐸?纏向遺跡はヤマト王権発祥の地?

今回は、邪馬台国ヤマト王権の関係について書いてみたいと思います。「天孫降臨」や「神武東征」の神話によると、初代天皇である神武天皇は、九州の日向(ひゅうが:現 宮崎県)の出身のようですが、女王・卑弥呼でおなじみの邪馬台国は、ヤマト王権と何か関係があるのでしょうか?

銅矛文化圏と銅鐸文化圏

銅矛文化圏と銅鐸文化圏

畿内の中心から突然消えた銅鐸(どうたく)

一昔前の歴史教科書によくあった「銅鐸文化圏」「銅矛文化圏」の「銅鐸」は、西は出雲地方、四国は徳島や高知、近畿は三輪氏の本拠地である奈良、東は長野県を中心に現在約500個ほど出土しています。

銅鐸と天孫降臨(の神話)以前から日本を治めていた「国津神(地祇/ちぎ)=土着の神様=地方の豪族」には深い関係があると考えられています。

「銅鐸」とは、青銅器の楽器または祭器で、紀元前2世紀から2世紀(弥生時代の後期)に使われ、ヤマト王権の発祥とともに畿内の中心から突然消えました。

なお、吉野ケ里遺跡など九州でも銅鐸は出土していますが、卑弥呼の時代の倭国(古代日本)を紹介している魏志倭人伝には1度も登場していません。

さらに、銅鐸は日本書紀にも古事記にも登場しません。

一般的に祭器などが突然歴史の表舞台から消えるのは、別の文化が流入したためだといわれています。

近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。(野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館

佐々木先生
佐々木先生
「銅鐸文化圏」「銅矛文化圏」は哲学者の和辻哲郎氏が『日本古代文化』(1939年)という著書で提唱した仮説だね。
野々村くん
野々村くん
最近は「文化圏」といえるほど、くっきり分かれていないので、歴史の教科書からも消えてますね。

ヤマト王権と関係がある前方後円墳

大阪府堺市周辺の前方後円墳群前方後円墳」とは、世界遺産の仁徳天皇領に代表される鍵穴型の古墳。3世紀中頃から7世紀の初頭頃に登場しました。

こちらは銅鐸の衰退時期に登場しています。

前方後円墳は、纏向遺跡(現・奈良県桜井市)の「箸墓古墳」が最古とされていて、ヤマト王権の始まりに関係があると考えられています。

ちなみに箸墓古墳の被葬者は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(ににぎのももそひめ)だとされています。

Ruby
Ruby
箸墓古墳は280~300年(±10~20年)のものと推定されています。
桃花ちゃん
桃花ちゃん
纒向遺跡には縄文時代からの遺跡もあるんですよね。

卑弥呼の墓ではなさそうな箸墓古墳

箸墓古墳の築造時期が、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年)に近いということもあり、この墓を邪馬台国の女王・卑弥呼や、後継者の壹與の墓だという人もいますが、古墳の規模や形状が魏志倭人伝の記述とは異なっています

卑弥呼の墓は円墳であり、箸墓古墳は後円部の大きさが直径約160mなのに対し、卑弥呼の墓は30m前後(1里=75mの短里で計算した場合)と小ぶりです。

さらに、箸墓古墳には、魏志倭人伝に記されている鉄鏃や絹も出土せず、半島由来の漢鏡、後漢鏡や刀剣類も出土していません。

纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い。(纏向遺跡-wikipedia

歴代天皇の不思議な享年

日本書紀」に登場する異常に長寿な天皇たち。日本書紀を元に計算すれば、初代天皇である神武天皇は、紀元前711年の生まれということになってしまいます。

お釈迦さまの誕生日が紀元前563年4月8日、孔子の誕生日は紀元前551年9月28日と伝わっていますから、彼らよりも年上ということになります。

魏志倭人伝が、同盟国である「倭国」を強大な国家として「盛った」ことで、後世のわたしたちが300年間も論争しているわけですから、自分の国家の強く古く見せようとすることは、どこの国も同じなのかもしれません。

Ruby
Ruby
魏志倭人伝が文字ばかりでなく、地図も描いてあったら、こんな論争にはならなかったのかも?
百犬くん
百犬くん
筆で地図を描くのは難しいワン!

古代の天皇の一覧表を作ってみましたので、ヤマト王権がどのあたりで発生したのか、推理してみたいと思います。

生死(在位)享年備 考
神武前711~585(前660~582)127「神武東征」神話(前667年・日向国→大和)・辛酉(かのととり)年1月1日畝傍橿原宮に即位 ※241年も辛酉
綏靖前632~549(前581~549)84欠史八代・阿蘇神社に金凝神(かなこりのかみ)として祀られる・食人の趣味あり?(神道集より)・川の神?
安寧前567~510(前548~511)67欠史八代片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや・大和高田市)に遷都・玉手看という神?
懿徳前553~477(前510~476)77欠史八代・軽曲峡宮(かるのまがりおのみや・橿原市)に遷都・鋤の神?・出雲でスサノオに出会う?
孝昭前507~393(前475~393)114欠史八代・宮の伝説地は御所市・香殖稲(かえしね)という神?
孝安前427~292(前392~291)137欠史八代・室秋津島宮(むろのあきつしまのみや・御所市)に遷都・殉死を法制化
孝霊前342~215(前290~215)128欠史八代・黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや・磯城郡)に遷都・百襲姫(ももそひめ)の父・ふとに神?
孝元前273~158(前214~158)116欠史八代・軽の境原宮(かるのさかいはらのみや・橿原市)に遷都・国牽(くにくる)という名の神?
開化前208~98(前157~98)111欠史八代・大日日(おおひひ)という名の神?・宮の伝説地は奈良市本子守町
崇神前148~29(前97~30)119実在の可能性あり大神神社大物主神を祀り、疫病を治める・四道将軍を各地に派遣(4世紀の前方後円墳の伝播地域)・御肇国天皇・「三輪王朝」?
垂仁前69~後70(前29~後70)139纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや・桜井市)に遷都・皇女の倭姫命、伊勢神宮創建出雲大社の神殿を改築したら、言葉が不自由だった皇子の誉津別命が話せるようになる・埴輪?(=時代合わず)
景行前13~後130(71~130)143九州巡幸・熊襲・土蜘蛛を征伐・子湯県の丹裳小野を日向と名づける・子供80人(日本武尊)・宮は纒向日代宮
成務84~190(131~190)107兄・日本武尊の第二子である甥の仲哀天皇を皇太子に任命・都は志賀高穴穂宮(大津)
仲哀149~200(192~200)53熊襲との戦いに敗れ崩御・妻は神功皇后、子は応神天皇・容姿端正、身長一丈(3m33cm)Σ(・ω・ノ)ノ
神功169~269(201~269)100仲哀天皇の皇后・天皇の熊襲征伐に随伴・征伐達成・新羅・百済・高麗服属させる(三韓征伐)山門県で土蜘蛛の巫女女王・田油津媛討ちとり(卑弥呼から100年後)
応神200~310(270~312)111八幡神として神格化・実在の可能性高い・「倭の五王」の「讃」に比定?・「河内王朝」創始者?
仁徳290~399(313~399)143民のかまどの逸話・浮気により別居・難波の高津宮に遷都・「倭の五王」?
履中336~405(400~405)70都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや・奈良県桜井市)「倭の五王」讃?
反正336~410(406~411)75兄弟継承した初の天皇・容姿美麗で歯が綺麗「瑞歯別天皇」・天下太平・崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当・都は丹比柴籬宮(大阪府松原市)・「倭の五王」?
允恭376~453(412~453)78飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施・近親相姦で流刑「衣通姫伝説」(確証なし)・「倭の五王」?
安康401~456(454~456)56「父を殺害したことで」皇后の連れ子に殺害される・「倭の五王」?
雄略418~479(457~479)62江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号・「倭の五王」のに比定(有力)478年、479年、502年に朝貢

①「神武東征」の神話で知られる初代天皇『神武』

初代天皇である「神武天皇」の享年は127歳。日本書紀にある「神武東征」の神話によると「日向(ひゅうが/現:宮崎県)から、大和(現:奈良県)に行った」とあります。

天孫降臨」の神話でも、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、「高天原(天上)から筑紫(九州)の日向の襲(くまそ/南部)の高千穂峰へ天降(あまくだ)った」と書かれているので、のちの「ヤマト王権」はもともと九州の南部、宮崎県あたりにあった国だと考えられますね。

邪馬台国と対立していた「狗奴国(くなこく)」が、「日向」であるという説もあります。魏志倭人伝によると「狗奴国は南に位置する」ということなので、可能性としては、あるかもしれません。

中国の史書である「新羅本記」に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人(日本から朝鮮半島へ食料を求めて、1千余人が海を渡った」と記述されています。

また、2世紀後半から地球規模の寒冷化があり、各地で「土地の収奪争い」が過激化したとの記録もあり、これがまた「倭国大乱(わこくたいらん)」の時期と重なっています。

倭国大乱」とは、中国の複数の史書に記述されている事件で、魏志倭人伝にも「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼(その国もまた、もともと男性の王さまが7~80年君臨していた。けれども、倭国は内乱となり、何年も攻めあった。そこでひとりの女王を立てた。名は卑弥呼という。)」と書かれています。

「神武東征」は、この混乱の時期だったのではないでしょうか。ただし、神武天皇がすでに誕生していたのかどうかは不明です。

日本書紀には、「神武天皇は、辛酉(かのととり)年1月1日に「畝傍橿原宮」で即位した」とあります。

神武天皇を祀る奈良県橿原市の「橿原神社」は、1890(明治23)年創建の比較的新しい神社ですが、橿原神宮外苑には、縄文時代晩期から奈良時代までの遺跡群があり、橿原神宮周辺は、いわゆる「パワースポット」のようですね。

明治時代の歴史学者である那珂通世は、(中略)、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が改まり、王朝が代わり、同時に正しい改革も行われる、特に21回毎に大革命が起こるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。(神武天皇ーwikipedia

辛酉革命説」は、飛鳥時代・奈良時代に日本に伝わった「讖緯説(しんいせつ)」という神秘思想による考え方。讖緯説とは、陰陽五行説や天文を元にした未来預言書で、中国の前漢から後漢に流行しました。

辛酉(かのととり)は、西暦を60で割って1が余る年であり、たとえば西暦181年、241年、301年がこれにあたります。

神武天皇の即位年は、西暦241年、場所は箸墓古墳のある纏向遺跡のあたりのような「気」がします。

②~⑨欠史八代は謎の時代

第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代の開化天皇(在位:前581~前98)までは、「欠史八代(けっしはちだい)」とよばれ、日本書紀や古事記にも系譜程度の情報しか記述されていません。

歴史学者の津田 宗吉は、崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇および、その皇后の神功皇后の存在も疑問視し、「欠史十三代」を主張しましたが、現在は、崇神天皇以降の実在性が強まり、「欠史八代」が通説となっています。

Ruby
Ruby
津田 宗吉さんは、戦前、神武天皇の存在を否定したとして不敬罪に問われてますね。

もちろん、欠史八代、8人の天皇の実在説を唱えている論者もいて、「奈良盆地南西部一帯の葛城地方にあった前王朝「葛城王朝」を取り込んだという説」や、「日本書紀に書かれている天皇の代数を尊重したため、実在の天皇の寿命を延ばして調整したという説」もあります。

17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる。(「欠史八代」-wikipedia

魏志倭人伝にも、「其人壽考或百年或八九十年(その人たちの寿命は、100年あるいは、8、90年)」とありますが、これは「現代日本人の寿命」であり、弥生時代には1年で2歳年齢を重ねる「二倍年歴」を採用していた可能性があるとの説もあります。

仁徳天皇(享年143歳)の後で、調整が完了したのか、半年歴をやめたかのどちらかでしょう。

⑩実在の可能性のある最初の天皇は『崇神天皇』

神武天皇の別名は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、崇神天皇の別名は「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と漢字は違いますが、読み方はまったく同じです。

2人は同一人物だという説や、崇神天皇こそがヤマト王権初の天皇だとする説があります。

また、崇神天皇は、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移したことで、「三輪王朝」ともよばれています。

古事記には、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)に対し、「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と、三輪山に祀られることを望んだとあり、日本書紀にも、大物主大神と大国主神は、同一の神さまでありながら、別の御霊として顕現したと書かれています。

大物主大神を三輪山に祀ると、当時蔓延していた疫病は終息し、五穀豊穣となったそうです。自ら祀られることを望んだという点は、出雲の「国譲り」の神話に似ていますね。

「大国主の国譲り」神話は、大国主神が「この地(現在の日本)を譲る代わりに、自分のために立派な宮殿を建ててほしい」と望んだという内容ですが、これが「出雲大社の起源」とされています。

崇神天皇が、三輪王朝の初代天皇だとすれば、当然、昔からその土地に住んでいる人々がいて……、「大神神社」は出雲大社と同じような境遇の人たちが神さまになっている神社なのかもしれません。

大物主神が乗り移って「自分を祀るよう」に託宣させたのは、倭迹迹日百襲姫命(ににぎのももそひめ)。彼女はのちに大物主神の妻となるのですが、崇神天皇の巫女的な役割を果たしており、この百襲姫命が、卑弥呼であるという説もあります。

日本書紀によると、崇神天皇は、北陸、東海、西道、丹波に4人の将軍(四道将軍/しどうしょうぐん)を派遣しており、前述の前方後円墳の伝播地域とほぼ一致しています。

『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。(崇神天皇ーwikipedia

崇神天皇の享年は、日本書紀では119歳、古事記では168歳となっています。古事記に崇神天皇は「戊寅年」に亡くなったと書かれていますので、おそらく、没年は西暦258年なのではないでしょうか。

神武天皇と崇神天皇、どちらがヤマト王権初代の天皇なのかは不明ですが、やはりこの時代(3世紀前半~中頃)がヤマト(『大きな倭』で大倭→大和)王権発祥の時期だと思います。

⑪出雲の大神の祟りで、『垂仁天皇』の皇子「本牟智和気」は口がきけず?

垂仁天皇の皇子「本牟智和気(ほむちわけ)」は、生まれつき言葉を話すことができませんでした。占ってみたところ、「出雲の大神の祟り」であることがわかり、出雲に使者を派遣し、大国主を拝ませました。

すると、皇子は話せるようになったそうです。そして、出雲の神社を立派に改築しました。

平和的に国を譲ったはずの出雲の大国主が祟る?…普通に考えれば「平和的に国を譲ったのではなかった」のかもしれませんね。

日本には古来から「御霊信仰(ごりょうしんこう)」の習わしがあり、天災や疫病の発生は、非業の死をとげた人間の「怨霊」のせいだとし、彼らを神さまとして祀り、信仰してきました。

一番有名なのが、学問の神さまとして知られている菅原道真公を祀った「天満宮(天神さん)」ですね。菅原道真公は、大宰府に左遷され、現地で亡くなった方です。

⑫『景行天皇』、九州巡幸で、周防国や豊後国の女酋を征伐

景行天皇は、周防国の娑麼(さば/山口県防府市)や豊後国の碩田(おおきた/大分県大分市)に出向き、土蜘蛛を征伐。

「熊襲梟帥(くまそたける)」の娘2人を誘惑し、父親を殺害させました。ただ、殺害までは望んでいなかったため、親不孝をとがめて、姉は誅殺(ちゅうさつ/罪人を殺害)し、妹は火国造(長崎・佐賀・熊本)に送り飛ばしました。

ミルクちゃん
ミルクちゃん
こりゃひどい!
Jasmineさん
Jasmineさん
娘も景行天皇もどっちもひどい!
純太くん
純太くん
不敬だ!

古事記では、景行天皇の皇子である伝説上の人物、倭建命(やまとたけるのみこと)」が女装して、熊襲梟帥(くまそたける)兄弟の寝所に忍び込み彼らを討ち、その時に「タケル」の名を、弟「タケル」から献上されたと書かれています。

純太くん
純太くん
こちらの方が話としては面白い!
桃花ちゃん
桃花ちゃん
不敬だ!

景行天皇は、子湯県の丹裳小野を日向と名づけ、現在の熊本、長崎、福岡などで土蜘蛛を誅殺したとあります。九州の土蜘蛛には女酋も多く、この時期はまだ、卑弥呼の時代と同様に、巫女が国を治めていたと考えられます。

なお、土蜘蛛とは、朝廷・天皇に恭順しなかった土着の豪族のことです。わたしは、邪馬台国は九州にあったと考えていますので、ここでいう土蜘蛛とは、邪馬台国の支配下にあった30ほどの国々のことだと思います。

熊襲討伐と三韓征伐で知られる『神功皇后』

江戸時代までは神功皇后が卑弥呼だと考えられていましたが、現在では、卑弥呼から持統天皇の時代の日朝関係をコンパクトにまとめた架空の人物だという説が有力です。

日本書紀の神功皇后の項目には、魏志倭人伝の「倭の女王(卑弥呼)」についての記述が引用されているので、日本書紀を編纂した藤原不比等(ふじわらのふひと)は、神功皇后と卑弥呼を同一視したかったのかもしれません。

神功皇后が実在するとすれば、卑弥呼の後継者、壹與(いこう)以降の時代であり、そもそも日本書紀は、魏志倭人伝の引用をするだけで、神功皇后が卑弥呼や壹與と同一人物であるとは書かれていませんし、卑弥呼、壹與、邪馬台国といった名称すら出てきません。

日本書紀によると、神功皇后は仲哀天皇の皇后で、熊襲討伐のため天皇に随伴しています。神懸かりとなった皇后が「熊襲のような痩せた国を攻めても無意味です。海を渡り、金銀財宝のある新羅を攻めなさい」と託宣しましたが、天皇が無視して熊襲を攻め、現地で戦死。

その後、神功皇后は、筑後川下流域の山門県(福岡県)に移動して、田油津媛(タブラツヒメ)という土蜘蛛の巫女女王を討ちとりました。

これが事実だとすれば、4世紀半ばのできごとであり、田油津媛は卑弥呼から約100年後のシャーマン女王だと考えられます。

福岡県みやま市の老松神社には、景行天皇に殺された女王・葛築目(くずちめ)または、田油津媛を祀った蜘蛛塚という古墳があり、明治時代までは、そこは女王塚とよばれていたそうです。

神功皇后は、仲哀天皇の死から十か月後、身重でありながらも、筑紫から玄界灘を渡り、新羅の国を攻めました。新羅は戦わずして白旗をあげ、金銀財宝を差し出しました。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束したそうです。この出来事を、三韓征伐といいます。

そして、天皇の死から十月十日後の12月4日、福岡市宇美町で、のちに応神天皇となる誉田別尊を出産しました。神功皇后は、月延石とよばれる石をお腹に当ててさらしを巻き、お腹を冷やすことで出産を遅らせたと伝わっています。

この頃、九州北部も完全にヤマト王権の支配下に入ったのではないかとされています。

神功皇后の実在は不明ですが、広開土王碑などの国外の史料からわかるとおり、391年に倭国が朝鮮半島を攻め、百済と新羅を服属させたことは事実です。

神功皇后は、戦前、実在する人物だとされ、彼女の肖像画付きのお札や切手が発行されるほど人気でした。

わたしが卑弥呼ゆかりの神社だと考えている大分県宇佐市にある「宇佐神宮(うさじんぐう)」の主祭神は、八幡大神(応神天皇)、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后の三柱。

主神は応神天皇のはずなのですが、実際に中央に祀られているのは「比売大神」であり、この比売大神こそが、邪馬台国の女王、卑弥呼なのではないかという有力な説があります。

⑮八幡神として神格化されている応神天皇

応神天皇は、4世紀後半に実在した人物の可能性が高いとされています。ただ、父親だと伝わる仲哀天皇が崩御した十月十日後に誕生したのがまず不自然。

応神天皇の父親は仲哀天皇ではなく、武内 宿禰(たけのうちのすくね)だという説もあります。

武内 宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えた伝説上の忠臣で、享年360歳以上!

応神天皇は、以前の天皇とは無関係な血統で、応神以降の王朝は河内地方(大阪平野)に宮や陵を築くことが多く、「河内王朝」とよばれることもあります。

応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。そのため後世に皇祖神として奉られることになった。(応神天皇ーwikipedia

⑯日本一の前方後円墳の主、仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で知られる

仁徳天皇は、実在の人物とされますが、享年111歳(古事記では84歳)。世界遺産に認定されている大阪府堺市堺区にある巨大な前方後円墳の被葬者として知られています。

そして、仁徳天皇の治世は「仁政」「聖の世」だと称えられています。

ある日、仁徳天皇が山の上から国を見下ろすと、どの家からも煙がのぼっていませんでした。これを見て天皇は、民衆が炊事もできないほど困窮していることを悟り、以後3年間、課税と労役を止めることにしました。

そして自らも、宮が雨漏りしても屋根の茅さえ葺き替えなかったそうです。そして3年後、再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていたそうです。これが有名な民のかまどの逸話です。

仁徳天皇は、『宋書』倭国伝に記されている「倭の五王(わのごおう)」に比定する説があります。

⑯~㉑倭の五王とは?

倭の五王」とは、5世紀初頭から末まで、おもに南朝の宋(420年-479年)に朝貢していた倭国の5人の王、讃・珍・済・興・武のことです。

倭国は413年から502年の間に少なくとも9回は入貢しています。この5人が、どの天皇のことなのかは諸説あり、ヤマト王権なのか、(邪馬台国の後の)九州王朝なのか、それとも、別の国なのかはわかっていません。

ただ、雄略天皇の実名は「ワカタケル」であり、「」は「タケル」を漢訳したものだと考えられています。武が入貢したのは、478年、479年、502年のことでした。

「邪馬台国とヤマト王権の関係」のまとめ

邪馬台国とヤマト王権の関係には諸説ありますが、わたしは、両者は別の国であったと思っています。

邪馬台国は九州にあり、ヤマト王権ももとは九州にあったのでしょう。

地理的にも朝鮮半島と行き来しやすく、魏志倭人伝によると、現在のプサンあたりにあった「狗邪韓国(くやかんこく)」も、当時は倭国(日本)の西北端の国だったようですし、韓国にも前方後円墳がいくつか発見されています。

当時の日本、中国、韓国は、現在の私たちが考えるより密接に関係していたのでしょう。

紀元前1世紀頃の『漢書』地理志には「楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ(楽浪郡(=ピョンヤンあたり)近辺の海の中には、倭人という種族が100余りの国にわかれて住んでいる。季節ごとに朝貢していた)」とありますので、倭国は紀元前1世紀の頃から、古代中国と交流していたようです。

そして、西暦57年には、歴史の教科書に出てきた「金印(倭奴国王印)」を授かり、107年には、倭国王・帥升が160人の奴隷を献上したと中国の史書に書かれています。

その後、卑弥呼、壱与へと続き、266年の朝貢から413年の「倭の五王」の朝貢まで、中国の歴史書から「倭国」の名前が消えます。

ヤマト王権はもともと南九州にあった国で、「神武東征」で奈良へとたどり着き、241年ごろ纒向の地で、新しい王朝を開いたと考えらます。そして、4世紀半ばの神功皇后の時代に九州を平定し、全国統一をはたしたのでしょう。

なお、「旧唐書」に「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」とあり、「新羅本紀」には、国号を「日本」に改めたと書かれています。

おそらく西暦700年ごろの倭人が、古代中国が名付けた「倭国」の「倭」には「小さい」という意味があり、国名としてはあまりイメージが良くないことに気づいたのでしょう。

国号を「日本」とした理由は、やはり「日の出る場所に近い」ということだったそうです。

今回は、邪馬台国シリーズの第二弾として、邪馬台国とヤマト王権の関係について書いてみました。邪馬台国とヤマト王権はどちらも九州発祥の国だとは思いますが、別の国だと思われます。