今回は、2021年4月3日~5日に法隆寺で営まれた「聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)」をご紹介します。
「聖徳太子1400年御遠忌」とは、聖徳太子が亡くなってから1400年目の法要のこと。御朱印も特別バージョンでした。
私たちが法隆寺を訪れたのは4月5日(日)の最終日。前日の雨模様とは打って変わって、雲ひとつない晴天でした。
- 『法隆寺』ってどんなお寺?
- 法隆寺の創建者とされる『聖徳太子』はどんな人?
- 『聖徳太子1400年御遠忌』とは?
- 法隆寺の境内にあった略地図
- 秘仏『救世観音(ぐぜかんのん)』の夢殿
- 東院伽藍から、御遠忌の会場・西院伽藍講堂へと向かう行列
- 「1400年御遠忌」の法要スタート!
- 会終了!聖徳太子七歳像と南無仏舎利、東院伽藍へ
- 西院伽藍・大講堂前解禁!
- 書道家・金澤翔子さん登場!
- 法隆寺市フォトジェニックな『五重塔』
- 文字通り世界最古の木造建築『金堂』
- 『大宝蔵院』の築造は1998年
- 見落とし厳禁!中門にある『金剛力士像』
- 聖徳太子一千四百年御聖諱記念の御朱印
- 法隆寺の七不思議
- 『平宗(ひらそう)』~法隆寺では「素麺」と「柿の葉寿司」がおすすめ!
『法隆寺』ってどんなお寺?
『法隆寺』とは、607年に推古天皇と聖徳太子によって創建されたとされる仏教寺院。
「607年創建」の根拠は、金堂に安置されている「薬師如来坐像」の光背の裏に、「(聖徳太子の父)用明天皇が自分の病気平癒のため伽藍(がらん)建立を発願したが亡くなったため、推古天皇と聖徳太子がその遺志を継ぎ、「607年」に法隆寺を建立した」と書かれていることです。
「日本書紀」によると、聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのおうじ)は、605年に飛鳥から斑鳩に移り住み、斑鳩寺(法隆寺の前身)を建てたと伝わっています。
そして同じく「日本書紀」に、法隆寺は670年に全焼したと記載されてはいるものの、それでも法隆寺の西院伽藍は「現存する世界最古の木造建築物群」と認められ、1993年、姫路城とともに日本初のユネスコ世界文化遺産に登録されました。
「法隆寺資財帳」には、693年に金堂で「仁王会」が行われていることや、711年に、五重塔初層に安置されている塑像群や、中門の「金剛力士像」が完成したことが記載されているので、7世紀初頭には、五重塔や西伽藍全体が完成していたとみられています。
ちなみに西院伽藍の「大講堂」は、925年に一度焼失し、990年に再建されたそうです。
法隆寺、607年創建説に異議あり!
「日本書紀」には、670年の火災の話はあるものの、607年の創建の話はありませんでした。しかも、607年創建の根拠となる「薬師如来坐像」は、鋳造技術や銘文の文体から、7世紀後半のものではないかという説もあります。
なお、「鞍作 止利」は、飛鳥寺の「飛鳥大仏」の作者でもあります。
法隆寺は創建以来一度も火災に合っていない?再建・非再建論争
明治時代の半ばまで、法隆寺は創建以来一度も焼失していないという説が一般的でしたが、明治20(1887)年ごろから、「日本書紀」の記載が見直され、再建論が浮上しました。
その後も論争は続いていましたが、昭和14(1939)年の発掘調査で、聖徳太子の時代の旧伽藍(若草伽藍)の遺構が発掘され、この論争は「再建派」の勝利に終わりました。
聖徳太子が飛鳥から移り住んだ「斑鳩宮」は、現在夢殿が建っている東院伽藍の場所にあり、太子が建立したと伝えられる「斑鳩寺」は、西院伽藍の裏手の若草伽藍と同じものということになります。
- 605年 聖徳太子が飛鳥から移り住んだのが「斑鳩宮」(現在の東院伽藍の場所)
- 607年(?)推古天皇と聖徳太子が建立したとされる「斑鳩寺」(法隆寺の前身)は、西院伽藍の裏手にあり、「若草伽藍」ともよばれる。670年に全焼している。ここは643年に聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一家が自害した場所である。
- 現在の西院伽藍は、7世紀の後半に再建されたものと推定。若草伽藍が存在していた時代に、すでに西院伽藍の建設が始まっていた可能性もある。
法隆寺の創建者とされる『聖徳太子』はどんな人?
「聖徳太子(574年5月15日~622年4月8日)」は、用明天皇の第二皇子とされる日本で一番人気といっても過言ではない飛鳥時代の政治家(王子さま)です。
「聖徳太子」という名は、751年に編纂された「懐風藻(かいふうそう)」という日本最古の漢詩集に初めて登場した「諡(おくりな)」で、本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)/厩戸王(うまやどのおう)」と表記される場合が多いようです。
聖徳太子は実在の人物ではないから、歴史の教科書から消えたのか?
令和3年現在、教科書(山川出版社『詳説日本史B』)では、「厩戸王(うまやどのおう)(聖徳太子)」と、あくまでも「厩戸王」がメインとして記載されているそうです。
小野妹子の遣隋使派遣、冠位十二階や「和を以て貴しとなす」で知られる十七条憲法制定、中央集権国家体制の確立、さまざまな著作物、ゆかりの寺院、神社の多さなど、この時代の偉業はすべて聖徳太子が主体的におこなったという説から、あまりにも超人的で、聖徳太子は架空の人物だったのではないかという説もあります。
さらに、2歳の時には、東の方角に向かい合掌して「南無仏」と唱えたという伝説や、10人(8人説、36人説もあり)もの話を同時に聞き分けられたという説、白い馬で富士山を越えて信濃国まで行って戻ってきたという伝説など、驚くべきエピソードが多数残されています。
とはいえ、「聖徳太子虚構説」を唱える歴史学者の大山 誠一氏でさえも、飛鳥時代に斑鳩宮に住み、斑鳩寺を建てたとする「厩戸王」の存在までは否定していません。
大山氏は、19歳で推古天皇の摂政に任命され、数々の超人的な偉業を成し遂げた「聖徳太子」は存在せず、冠位十二階と遣隋使の2つ以外の業績は全くの虚構だという説を唱えています。
大方の論者は、聖徳太子の経歴には多くの誇張や粉飾はあるものの、後から付けられた敬称とはいえ、推古天皇を蘇我馬子とともに支えた有力な王族の「聖徳太子」は存在したという立場をとっています。
ほかにも聖徳太子は蘇我善徳(馬子の長男)と同一人物、聖徳太子と蘇我馬子が同一人物、蘇我入鹿は架空の人物、厩戸皇子はまた別にいるなど、とにかく諸説入り乱れています。
『聖徳太子1400年御遠忌』とは?
「1400年御遠忌(ごおんき)」とは、聖徳太子の1400年目の命日の法要という意味です。法要は2021年4月3日から5日にかけて、五重塔や金堂のある西院伽藍で行われました。
聖徳太子1300年御遠忌では新一万円札の顔『渋沢栄一』も大活躍
「1400年御遠忌」があるということは、当然「1300年御遠忌」もありました。
渋沢は法要の3年前の1918(大正7)年、奉賛会をつくると、今の上皇さまの祖父の久邇宮(くにのみや)邦彦(くによし)を総裁に、紀伊徳川家15代当主の徳川頼倫(よりみち)を会長にたて、渋沢は副会長に就いた。18年5月17日付の東京朝日新聞には「聖徳太子千三百年遠忌 奉賛会設立さる」の記事が載り、徳川や渋沢の名前もある。(引用元:朝日新聞デジタル)
当時の「法隆寺」は、政府が出した「上知令」で領地を没収され、相当財政難だったようです。そこで立ち上がったのが大実業家の渋沢栄一氏だったんですね。
「1400年御遠忌」は、新型コロナウイルスのため、ほとんどPRができず、参拝者もかなり少なめでしたが、1921年4月11から17日まで1週間にわたり行われた「1300年御遠忌」には、皇室や当時の原敬首相をはじめ、約26万人もの善男善女が参拝したそうです。
「早朝5時に名古屋を出る汽車がたちまち満員になった」と当時の東京朝日新聞に報道されたほどでした。
渋沢栄一氏といえば、2024年に発行される予定の新1万円札の顔。聖徳太子は、1930年発行の100円券からはじまり1984年発行の10,000円札まで、いずれも発行当時の最高額券に採用されてきました。
梅原猛氏の『隠された十字架』にも出てきた『聖霊会』
『隠された十字架』に登場する『聖霊会(しょうりょうえ)』は、今から50年前の1971年の千三百五十年忌。
梅原氏によると、『聖霊会(しょうりょうえ)』には、室町時代から「小会式(しょうえしき)」と「大会式(だいえしき)」があり、前者は毎年、聖徳太子の命日前後に3日間「聖霊院」で行われ、後者は50年に1度「西院講堂」前で舞楽を伴って行われてきたそうです。
梅原氏がその年が「千三百五十年忌に当たる」と気づいたのは、会の4、5日前のことでした。1971年の聖霊会は、4月3日から3日間続いたそうです。今年2012年の御遠忌とちょうど同じ日程ですね。
梅原氏は、会のクライマックス「蘇莫者(そまくしゃ)」の舞を見て、蘇莫者に聖徳太子を重ねて合わせていたそうです。
太子の霊はしずしずと、講堂の前にもうけられた、舞台の上に登場し、そこで舞を舞うたのである。そのとき、太子の顔は真っ赤であり、白い長い毛が、ふさふさとたれ下がり、その赤い顔をかくしていた。そしてその白い長い毛ごしに見えた太子のお顔はいとも恐ろしいお顔であった。目をかっと見開き、口は大声で何かを叫び、舞いというより、それはおどりに近い早い動きである。しばらく、太子は舞台で奇怪な舞を舞い、そして消えた。(梅原毅著『隠された十字架』より)
通説では「蘇莫者」は、聖徳太子が好んだと伝わる舞楽で、太子が馬で河内の亀ケ瀬を通りがかった時に、洞簫(どうしょう)という楽器(笛)を吹くと、その音色にあわせて山の神が舞ったという伝承を舞楽にしたものだそうです。
梅原氏は蘇莫者を、「老いた猿に似た山の神」ではなく、「蘇我の莫(な)き者」=蘇我一門の亡霊、つまり「蘇莫者」とは、蘇我一門の精神的代表者である「聖徳太子の霊」だと解釈しています。
法隆寺の境内にあった略地図
境内にあった地図。救世観音や夢殿を作った高僧・行信像が安置されているのは、東院伽藍(パープル)の「夢殿」の中です。
西院伽藍(ピンク)の大講堂の前で「1400年御遠忌」がおこなわれ、大宝蔵院(オレンジ)で「百済観音」や「玉虫厨子」を見ることができました。
日本最古のものとされる「金剛力士像」も西院伽藍の中門(ピンク)にあります。見落としがちな場所にあるのでくれぐれもご注意ください。
秘仏『救世観音(ぐぜかんのん)』の夢殿
西院伽藍の中心にある八角円堂の「夢殿」は、748(天平20)年に「聖霊会(しょうりょうえ)/御遠忌」がはじまったとされる聖地。聖徳太子が暮らしていた「斑鳩宮」の跡地に建てられています。
創建は奈良時代ですが、鎌倉時代(1230年)に高さや組み物が改変されています。ただし、元の面影をしっかり残しています。基壇は二重で最大径は11.3m。
「夢殿」は1年に2度、基本的に春季4月11日~5月18日、秋季10月22日~11月22日に 開帳されます。今年に限っては特別に4月1日から開帳されていました。
「1400年御遠忌」中でもこの閑散とした様子。新型コロナウイスルのために、本当にほとんどPRできなかった模様です。
夢殿の住人『行信』と『救世観音』
厭魅の罪で左遷?『行信』
『行信』は法隆寺東院の復興に尽力した大僧都(だいそうず)でした。750年前後に活躍していたと伝わっています。
754年に、厭魅(まじないで人を呪い殺す)の罪により、栃木県下野市の「下野薬師寺(しもつけやくしじ)」に左遷されたと伝わる「薬師寺の行信」と同一人物だとする説もあります。
モデルは当然聖徳太子?『救世観音』
『救世観音(ぐぜかんのん)』の「救世」とは、「人々を世の苦しみから救うこと」。身長約178.8cmで、聖徳太子の等身大の仏像だとされています。
実はこの『救世観音(ぐぜかんのん)』は、739年に建立されたとされる仏像で、1884年に法隆寺の調査に訪れたアメリカ人・アーネストフェノロサと弟子の岡倉 天心に開帳されるまでの約200年間、長さ450mもの長い布でぐるぐる巻きにされていたそうなのです。
僧たちは聖徳太子の祟りを怖れて、開帳した場合は地震や落雷でお寺が壊れてしまうと信じ込み拒んでいたそうです。
開帳しても僧侶たちが逃げ出し、大量の埃が舞っただけで、とくに何も起こりませんでしたが、中から世にも美しい黄金に輝く仏像が出てきました。グルグル巻きにされていたため、保存状態はすこぶる良好でした。
光明皇后、天然痘の大流行で東院伽藍と救世観音を建立
夢殿が建立されたのは737年。天然痘(天平の疫病)が大流行し、当時の日本の総人口の25~35%にあたるとされる100万~150万人が感染死したと伝わっています。
藤原不比等の四人の息子も全員、737年中に相次いで亡くなりました。この疫病の流行を、「聖徳太子の祟り」だと考えた光明皇后が、739年、法隆寺に多額の寄付をして、東院伽藍(夢殿)や救世観音を建立したとされています。
東院伽藍から、御遠忌の会場・西院伽藍講堂へと向かう行列
マスクが少し残念ですが、いにしえの装束を身にまとった行列を眺めていると、いつの間にやら飛鳥時代にタイムスリップ。
複雑な気分ですが、コロナ禍でなければ、こんなに近くでは見られなかったでしょう。
「胡蝶(こちょう)と迦陵頻(かりょうぴん)」。雅楽の童舞(わらわまい)を舞うお稚児さんたちです(雅楽団体「南都楽所(がくそ)」)。これは春の日に舞い遊ぶ蝶々を表現する四人舞です。
「1400年御遠忌」の法要スタート!
私たちは特別招待客ではないので、かなり写真が小さいですが、これが「蘇莫者(そまくしゃ)」の舞です。向かって左に少しだけ見えるのが、竜笛を吹く聖徳太子。どちらもオレンジ色の衣装を着けています。
会終了!聖徳太子七歳像と南無仏舎利、東院伽藍へ
西院伽藍から2基の御輿(こし)が登場。御輿に乗るのは、法要の本尊となる「太子七歳像」と「南無仏舎利」。
聖徳太子7歳時の姿を表した「七歳像」は平安時代の作だそうです。
「南無仏舎利」は、2歳の太子が東を向いて手を合わせて「南無仏(なむぶつ)」と唱えたときに、手のひらからこぼれ落ちた「お釈迦さまの骨」だと伝わっています。
法隆寺という場所柄、ご年配の方が多かったのですが、こういうときは手を合わさずに、みなさんスマホやカメラを構えてしまうんですよね。もちろん私もですが。
お面をつけて神輿をかつぐ人たちは、前がほとんど見えていないようで、横には誘導役の方が付いていました。
西院伽藍・大講堂前解禁!
法要の主役、神輿に乗った聖徳太子7歳像と南無仏舎利が東院大伽藍の方に戻られた後は、一般参拝者にも西院伽藍の大講堂前が解禁されます。
源頼朝からの寄進と伝わる鼉太鼓(だだいこ)。なにげにすごいものですね。雅楽の楽器で国の重要文化財だそうです。近づいてみるとかなりの迫力。
正面に見えるのは「大講堂」。法要のこの日は、五色の幕を使っています。五色幕はインド哲学の五大か中国の五行思想が由来だとされています。
五行思想では、青は青龍、赤は朱雀、黄は黄龍、白は白虎、黒は玄武を表しているそうです。
書道家・金澤翔子さん登場!
法要終了後は、書道家、金澤翔子さんがド迫力の書道パフォーマンスを披露。
翔子さんは、1985年6月12日生まれ。東京都目黒区出身。5歳にして、お母さんの書道家、金沢蘭鳳(泰子)さんに師事しました。
この日もお母さんは、小柄な身体で大きな筆を巧みに操る翔子さんをガッチリとサポートされていました。
16歳で日本学生書道文化連盟展に「舎利札」を出品し、金賞受賞。20歳で銀座書廊において個展「翔子 書の世界」を催しました。
2007年には、東京芸術劇場にて、創作バレエ「まくべす」の開幕に、舞台上で長さ5mにおよぶ大壁紙に席上揮毫(せきじょうきごう)、2011年には、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を担当。
黒柳徹子さんの「徹子の部屋」にお母さんとともに出演し、「アンビリーバボー」や「金曜日のスマたちへ」など、様々なメディアで紹介されています。
この日、翔子さんが披露してくれたのは「共に生きる」。コロナ禍の昨今、共に生きてくれる人の大切さが身にしみます。
力強い作風が特徴の彼女ですが、みなさんの大きな声援で涙ぐんでいた可愛らしい女性でした。私も大好きになってしまいました。
翔子さんは、ダウン症という障がいを抱え、仮死状態で生まれてきました。
お母さんの泰子さんは、「知的なハンデを持つこの子を残して死んではいけない。ならば一緒に死ぬしかない」とまで考えたこともあったそうです。
ところが5歳の翔子さんは書道教室に通ってくる同年齢の他の子よりも「書けた」そうなんです。
以下は、そんな翔子さんと「共に生きる」お母さんの言葉です。
生きている限り、私は渾身の力で翔子を愛する
そして死して後もなお、この宇宙の一隅に潜んで、全霊を尽くして、翔子を永遠に見守る
お母さんによると、翔子さんは幼い頃から誰にでも笑顔で話しかけ、明るく優しい性格だったそうです。
これからも書道家、金澤翔子に注目していきたいと思います。
現在は一人暮らしをしながら、登録者数10,000人を目指すユーチューバーでもあります。
法隆寺市フォトジェニックな『五重塔』
西院伽藍でひときわ目立つ「五重塔」。1300年もの長きにわたり、創建当時の形を残した世界最古の木造建築の一つです。
地震大国日本では、この塔以外にも約500もの五重塔が存在するそうですが、地震で倒壊した例はほとんどないそうです。昔の人は、スーパーコンピュータさながらの知恵と技術をもっていたようですね。
法隆寺の五重塔は、高さ31.5m。地下1.5mの心柱に仏舎利を6粒納めています。
法隆寺の七不思議のひとつ「相輪の鎌」は、刀工の家の古文書によると「雷よけのまじない」とのこと。肉眼での確認は少し厳しいようです。
法隆寺の五重塔は、非常にフォトジェニックな塔でSNS映えしますよ。
文字通り世界最古の木造建築『金堂』
五重塔の隣に位置する「金堂(こんどう)」も日本書紀によると670年に焼失し、その後再建されたそうです。
再建は五重塔より若干早く、文字通り世界最古の木造建築となります。
一見、二階建てのように見えますが、二階に部屋はありません。
金堂内部には、本尊にして国宝の釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来からなる「釈迦三尊像」が安置されています。ほかにも13体の仏像が見られます。
釈迦如来の光背の裏面には、聖徳太子の浄土での安寧を祈る文言が刻まれています。
『大宝蔵院』の築造は1998年
ピンクの桜と『大宝蔵院』。東宝院と西法院からなります。1998年に建てられたもの。真っ白でとても綺麗です。
聖徳太子が他界され1400年目の春。ご自身も疫病でお亡くなりになったという説のある太子に、新型コロナウイルスのできるだけ早期の終結を祈らずにはおれません。
なかなか味わい深い額の文字。おそらく『大宝蔵』と書かれているはずです。
超スリムな『百済観音』と本物の玉虫の羽を使った『玉虫厨子』
大宝蔵院の目玉(?)は『百済観音』と『玉虫厨子』。
『百済観音』は身長210.9cm。バレーかバスケットボールの選手のように長身で、8等身とも9等身ともいわれるスリムで印象的なお姿です。
建立年代は7世紀前半から中期とされ、明治時代までは「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」とよばれていました。
『法隆寺諸堂仏躰数量記』では、この「虚空蔵菩薩像」を「百済国から渡来した天竺(インド)製の像である」としています。
『百済観音』という現在の名称は、1917年の『法隆寺大鏡』の解説が初出となります。『玉虫厨子』も7世紀頃に造られたもので、飛鳥時代の仏教工芸品。高さ233cmの漆塗り製で、装飾に本物の玉虫の羽を使っています。残念ながら、現在ではほとんど確認することができません。
玉虫厨子はいわゆる「仏堂のミニチュア版」。観音開きの扉の中に仏像などを納めて部屋に安置し信仰します。
玉虫厨子には、もともと「三尊仏像」が納められていたようですが、13世紀に盗難にあったため、現在は金銅観音像が納められています。推古天皇が身近において朝夕拝んでいたと伝わっています。
見落とし厳禁!中門にある『金剛力士像』
法隆寺の『金剛力士像』は、中門にあって見落とされがち。なぜなら、「門」といっても、通り抜けができないからです。
一般的なお寺は中門の柱が4本なのですが、法隆寺はなぜか5本。その理由は、真ん中に邪魔な柱を置くことで、「聖徳太子の怨霊」を外に出さないようにするためだそうです。もちろんこれは「通説」ではありません。
『金剛力士像』の築造年は、『阿形(あぎょう)』『吽形(うんぎょう)』ともに711年とされています。材質は当初、粘土を塗り固めた塑像でしたが、原形をとどめないほど度重なる修理をし、現在では「ほとんど木造」となっています。
像高は阿形(あぎょう)379.9cm、吽形(うんぎょう)378.5cm。
聖徳太子一千四百年御聖諱記念の御朱印
法隆寺の御朱印です。『聖徳太子千一千四百年御聖諱(ごしょうき)記念』の印が押されていました。この御朱印は、聖霊院でいただける『南無佛(なむぶつ)』。
ほかには、「和を以て貴しと為す」の「和以貴為」など、数種類の御朱印がいただけます。中央部の朱印は琵琶を演奏する聖徳太子。
法隆寺の七不思議
法隆寺には「七不思議」とよばれるものがあります。江戸時代から庶民の間で語られ始めたとか…。
- 法隆寺の伽藍には、蜘蛛の巣も張らないし、スズメもフンをしない(お坊さんたちが綺麗に掃除をされているからだと思いますが、目撃情報あり)
- 南大門の前に「鯛石」とよばれる大きな石があり、大雨が降ってもこの石より上には水位がこない(どうなんでしょう?わかりません)
- 五重塔の先端部分に鎌が4本刺さっていて、これは「太子の怨霊封じ」である(実際は落雷防止のおまじないのようです)
- 中庭の地下には伏蔵があり、法隆寺が破損したら再建できるよう財宝が埋められている(真偽不明)
- 因可池(よるかのいけ)のカエルはすべて片目である(聖徳太子が斑鳩宮で学問に励んでいたところ、カエルがうるさかったため、筆で片目をついてみたところ、すべてのカエルが片目になった。目撃情報なし。太子、意外に残酷)
- 夢殿の救世観音像の前の礼盤(らいばん)の後ろは汗をかいている(礼盤(お坊さんの座る椅子)の蓋の裏側を日光にさらすと、汗をかいたように少し湿ってくるそうです。旧暦1月12日、その水分の量でその年の豊凶を占う行事「夢殿のお水取り」があります。これは本当だということですね!)
- 雨だれの穴が地面に開いていない(実際は開いているそうです)
名称 | 法隆寺 |
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所在地 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 |
電話番号 | 0745-75-2555 |
拝観時間 | 8:00~17:00(2月~11月頃までは~16:00) |
拝観料 | 大人1,500円/小学生750円 |
御朱印 | 300円 |
交通アクセス | 法隆寺駅から徒歩で20分/法隆寺駅からバスで5分 |
公式サイト | http://www.horyuji.or.jp |
『平宗(ひらそう)』~法隆寺では「素麺」と「柿の葉寿司」がおすすめ!
ここは柿のかき氷「柿氷」で有名な『平宗・法隆寺店』。残念ながら現在、「柿氷」は提供されていませんでしたが、柿の葉寿司5貫、三輪素麺、小鉢3種、ミニデザートの付いた『奈良ランチ(1410円)』をいただきました。
「柿の葉寿司」は、サバと鮭のみかと思っていたら、アナゴや珍しい大根(もしくはカブ)のお寿司も入っていました。
温泉たまごやごま豆腐、にゅう麺もとても上品なお味。見た目通りの美味しさですとはこのことです。こちらのお店はもともと「柿の葉寿司」のお店なのだから当然ともいえますね。
柿の葉寿司のお持ち帰りや柿を使ったお菓子などの、お土産も充実しています。現在コロナで、お客さまは少なめですが、本来は行列のできる人気店です。
予約可、カード可。店内は全席禁煙ですが、テラス席は喫煙可能。
店名 | 柿の葉ずし 平宗 法隆寺店 (ひらそう) |
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所在地 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺1-8-40 |
電話番号 | 0745-75-1110 |
営業時間 | 9:00~17:00(喫茶:10:00~16:00(L/O)) |
定休日 | 無休 |
交通アクセス | JR法隆寺駅よりバス10分(健脚さんは徒歩圏内) |
公式サイト | http://www.hiraso.jp/ |
今回は4月3日から3日間法隆寺で営まれた「聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)」の最終日の様子をご紹介しました。
聖徳太子は、用明天皇の第二皇子というだけで、どこにでもいる平凡な人だったのか、それとも万能の天才だったのか。
今となっては誰にもわかりませんが、令和を生きる私たちにとっては、どちらにしろ愛すべき存在です。
とにかく、雲一つない青空をありがとう!と私は太子にお礼が言いたいです。