今回は、『卑弥呼は金髪で青い目の女王だった』という著書で、非常にユニークな仮説を発表された歴史言語学者の故・加治木 義博氏の邪馬台国論をご紹介します。
邪馬台国の比定地は、畿内説、北九州説といろいろありますが、加治木 義弘氏は、南九州の鹿児島(現在の霧島市隼人町あたり)だと結論付けられています。
歴史言語学者・加治木 義博氏とは?
1923年生まれの加治木 義博氏は、1990年に出版された『真説ノストラダムスの大予言』がベストセラーになった歴史言語学者です。
2016年に発売された著書『卑弥呼は金髪で青い目の女王だった』のプロフィールには「故人」とありましたので、2016年以前に他界されたものとみられています。
加治木氏は、「言語復元史学会」という組織を主宰し、日本の古代語をはじめ、方言、諸外国の古代語から現代語まで広く精通されています。
邪馬台国の位置については、中国の正史『三国志・魏志倭人伝』に記述されている「帯方郡(たいほうぐん)」からの距離や方角から比定する場合が多いのですが、加治木氏の場合は、距離や方角以上に、日本書紀や古事記、海外の文献に出てくる人名(肩書)や地名を重要視されています。
加治木氏は、アイヌの言葉や沖縄の方言、古代中国語、インド語、ペルシャ語などから、それぞれの類似点を見つけ、そこから独自の理論を展開していくスタイルをとっているため、彼の仮説は、とにかく複雑で難解。
当然管理人にも、納得できるものとできないものがあります。
彼の仮説を、単なる「語呂合わせ」だと酷評する学者もいるようですが、大正生まれの方とは思えない斬新で若々しい文体で、令和を生きる私たちも、彼の文章を気楽に楽しく読むことができます。
加治木義博版『邪馬台国への道のり』
加治木義博氏の1里は約55m
卑弥呼がはじめて登場するのは、西晋の陳寿が記した『魏志倭人伝』。そこには、帯方郡(たいほうぐん/現在のソウル付近?)から倭(現在の九州?)に至る行程(距離と方角)が書かれています。
そこには、帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)までが七千余里、狗邪韓国から対馬国までが千余里、さらにそこから一大国(一支・壱岐)までが千余里とされています。
狗邪韓国は「倭国の北岸」とありますので、3世紀当時、そこは日本に属していたようです。現在でいえば、金海(キメ)市か釜山(プサン)市のあたりであろうといわれています。
対馬国は対馬、一大國が壱岐だという説は、邪馬台国九州説、畿内説、どちらをとなえる論者にも共通の認識であり、加治木氏もここに異論はないようです。
そこで、対馬の厳原港と(いづはらこう)と、壱岐の勝本港の間を計ったところ、約55.6kmであることから、倭人里の1里は約55mとしています。
加治木義博説では、末盧國(まつろこく)は松浦川で、伊都国は牛津
最初の上陸ポイントである「末盧国」は、佐賀県の北部を流れる「松浦川」と比定しています。松浦川は、唐津市、伊万里市、武雄市、3つの市を流れる一級河川です。
そして、末廬国から陸を東南に五百里進んだ地である伊都国(いとこく)は、福岡県糸島市か福岡市西区(旧・怡土郡(いとぐん))であると比定する説が多いようですが、加治木氏は、佐賀県の小城郡牛津町(現・小城市)だとしています。
そこで、伊都国の比定地が牛津である根拠なのですが…
倭国連邦のいくつかの国名は「ヒー、フー、ミー、ヨー、イツ」と数字でできている。というわけで、「伊都」は「イト」ではなく「イツ」と読む。「イツ」は「五」であり、時代とともに「五」は同じ読み方ができる「牛(ゴ)」に変わった。
牛津の「津」は「港」を意味する。当時、牛津は港だったので、南へ「水行(船旅)」できた。
『魏史倭人伝』には、伊都国から南に水上を二十日いけば、投馬国に至ると書いてあるので、牛津が有明海に面した港だったのなら条件を満たしてますね。
「捜す」と、現在の名称「佐賀」の読み方が共通している。
伊都国には、「臨津捜露(港のそばで、荷物を捜索(=検査))」する「一大率」があり、邪馬壹国(鹿児島県霧島市隼人町)へは、南へ水行十日、陸行一月
加治木義博氏の説では、帯方郡の使いは伊都国までしか来ていないということです。この説に関しては現在、主流となっているようですね。
倭国は魏は友好国ではあるけれど、あまり信頼していなかった。だから、あえて難しいルートを日数で教えたということだそうです。
そしてそのルートとは、牛津(伊都国)を出発し、船で十日かけて女王国の国境(現・八代)に到着。
八代で船を降り、球磨川沿いの山道を現在の人吉まで登り、現在のJR肥薩線(びさつせん)に沿って南下。
そして、目的地の邪馬壹国(現・鹿児島県霧島市隼人町付近)に到着します。
女王国と邪馬壹国は別のもの
女王国と邪馬壹国を同じものとする歴史学者が多いようですが、加治木氏は、それらは別のもので、現在の八代付近が女王国の入り口と考えています。
加治木氏の説は、卑弥呼の死により邪馬臺国が滅びて、邪馬壹国という名前に変わったということです。
加治木義博氏の仮説では、卑弥呼は沖縄(伊是名)出身
加治木 義博氏によると、卑弥呼は日本初の夫婦の神さま、イザナキ、イザナミの娘で、アマテラスと同一人物だそうです。‥‥いやいや、そう単純な話ではないのですけどね。
イザナキ、イザナミは個人名ではなく、「肩書」
「伊是名村(いぜなそん)」は、沖縄県島尻郡に位置する村で、現在1,400名ほどの村民が暮らしています。伊是名村は、伊是名島をはじめ4つの島から構成されているようですが、住民が暮らしているのは、伊是名島のみとなっています。
具志川島で発掘された約3,000年前の人骨には、貝でつくった腕輪の飾りがあった。このような例は県内では他になく、当時としては高度な生活水準にあったといわれている。(伊是名村ホームページ)
約3,000年前といえば、3世紀に活躍した卑弥呼の時代よりもかなり前になりますね。
加治木氏によると、沖縄の言葉(琉球語)は、五母音でできている本土の言葉とは違い、三母音で成り立ち、「エ」と「オ」がなく、「エ」は「イ」に、「オ」は「ウ」に変わります。さらに、ハ行の発音も本土では「h(ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ)」なのですが、「f(ファ・フィ・フ・フェ・フォ)」となります。
スウェーデンの中国学者「カールグレン」の研究では、「卑弥呼」の本当の読み方は、「ピェ・ミャル・ゴ」であり、これを「ヒミコ」と発音するのは、琉球語の影響だとしています。
また、加治木氏の研究によると、同じ鹿児島のなかでも、大隅半島は琉球語の影響を強く受けており、薩摩半島は鹿児島語の影響を強く受けている言葉が多いそうです。
元々琉球には「e」の音がなかったため、「伊是名(izena)」という地名はないのですが、1609年の琉球侵攻で、(琉球語の影響を受けていない)薩摩藩から人が流入し、「izana」だったものが、「izena」に変わったということです。
「キとミ」は「王さまと皇后さま」。琉球では、「キ」という発音はなく「チ」となり、「父」を意味します。「ミ」は、本来は「メ(女)」ですが、伊是名は沖縄なので「ミ」となります。
とにかく、伊是名の王さまと皇后さまは代々、「イザナキ・イザナミ」と呼ばれていて、私たちが良く知る『古事記』の「伊邪那岐・伊邪那美」とはかなりイメージが違うようです。
卑弥呼も個人名ではなく、倭国連邦大統領の官職名
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
(現代語訳)倭国は7~80年の間、男性の王さまが統治していましたが、毎年のように戦乱がありました。そこで、ひとりの女性を「共立」しました。名は卑弥呼といいます。
「共立」とありますので、話し合いで「ある女性」を選んだということになりますね。「卑弥呼」というのは、その女性の名前ではなく、選ばれたときに与えられた「肩書」であり、卑弥呼は、アメリカ合衆国大統領と同じ、連邦の代表者ということになります。
「倭国」イコール「邪馬台国(邪馬壹国)」ではないというわけですね。邪馬壹国は、連邦傘下の自治体であり、いわばネバダ州やフロリダ州などと同じなのです。
「高天原」は南九州の熊毛地方
「高天原(たかまがはら)」といえば、天照大神(あまてらすおおかみ)をはじめとする天津神(あまつかみ)たちが住んでいた場所なのですが、加治木 義博氏の説では、実在の地名であり、鹿児島の諸島部、「熊毛地方」だそうです。
『古事記』には「訓 高下天 云 阿麻 下効此」と小さい文字の注釈があり、これを現代語に訳すと「高の字の下の天の字は、オマと読む。これから後も同じように読め(=重箱読み)(加治木義博氏訳)」となり、「高天原」の読み方は「コー・オマ・ゲン」となります。
『古事記』『日本書紀』の登場人物には、他人の歴史が入り混じる
天照大神は卑弥呼と同一人物であり、同一人物ではない?
「イザナキ・イザナミ」の娘として有名なのは、なんといっても天照大神。天照大神は、太陽(日)の巫女として知られ、卑弥呼とは、赤の他人とは思えませんね。
「天の岩戸隠れ」の神話は、弟の須佐之男命(すさのをのみこと)のいたずらに堪えかね、天岩戸(あまのいわと)と呼ばれる洞窟に「隠れる」お話。
これは一般的には、「日食」のことだといわれていますね。アメノウズメのストリップダンス(?)で楽しそうに騒いでいる様子を見ようと、天照大神は、石の扉を開けて外に出てきます。
加治木氏によると、これは卑弥呼の死(隠れる)をあらわし、代わりに登場した女性は、「壹與(いちよ)」だそうです。
そして、「石の扉」というのは、古墳の石櫃の蓋の象徴ということだそうです。
そもそも、天照大神と卑弥呼は同時代の人物なのか?
天照大神も個人名ではないため、彼女の人生には、さまざまな人物の歴史が混ざっています。
天孫降臨の際、天照大神が孫のニニギノミコトに与えたものに、三種の神器があります。つまり、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)なのですが、鏡は青銅鏡で、剣は鉄製です。
卑弥呼が魏の皇帝から青銅の鏡100枚を贈られたのは239年。まさに、青銅器時代の終わりで鉄器時代の始まりです。加治木氏によると、天孫降臨の時代と、卑弥呼の時代は完全に一致するそうです。
神功皇后は卑弥呼と壹與のミックス?
『日本書紀』の『神功皇后紀』には、注釈として、魏志倭人伝に書かれている239年、240年、240年、266年の出来事が記載されています。このうち266年の出来事が壹與の統治時代で、ほかの3つが卑弥呼のものとされています。
神功皇后は、(仮に実在したとすればですが)夫の仲哀天皇の崩御から、息子の応神天皇の即位まで日本初の摂政として約70年間(201年~269年)君臨しています。
加治木説は、神功皇后は、卑弥呼と壹與をミックスさせた人物だとしています。
神功皇后は、仲哀天皇の遺児である誉田別尊(ほむたわけのみこと/後の応神天皇)が生まれたために、異母兄である麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)に攻撃されましたが、撃退しました。
2人の皇子の名前は、鹿児島、大隅、熊襲、球磨、熊毛など、九州南部の地名を連想させます。加治木説は、神功皇后の時代、大和朝廷の舞台は近畿地方ではなく、南九州だったということになります。
ではなぜ、古代日本の歴史は、こんなに他人人生が入り混じるの?
ではなぜ、このようにややこしい状態になってしまったのでしょうか?加治木氏の説は以下の通り。
それはやはり、古代の日本では、「卑弥呼」や「イザナキ」のように、個人名なのか肩書なのか判別しにくいうえに、同じ肩書を複数の人が使っていたりするからです。
『古事記』は、稗田阿礼が話したことを、太安万侶が筆録したとありますので、すべて当て字になってしまうわけです。
そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。(稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)-wikipedia)
加治木氏は、「記録→破損→暗記者→誤読→速記」が、古代の歴史保存システムであり、避けられない変形や誤解を生みだしてしまうと述べています。
卑弥呼はシャーマンではなくピューティア
「ピューティア」とは、古代ギリシアのデルポイ神殿の背後の洞窟などに住み、岩の裂け目などで湯を沸かして、その音から神の言葉を聞き取って、男性の神官に伝える巫女でした。まさに卑弥呼のスタイルと同じですね。
魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道」を用いて国を統治していたとありました。鬼道を道教だと主張する論者が多いようですが、加治木説では、シンドゥー(ヒンズー)教(=神道)やアショカ仏教がミックスされたものだとなっています。
ちなみに、アショカ王の祖母はギリシア皇女で、ギリシア人に囲まれて育ったようです。
加治木氏は、卑弥呼は金髪で青い目だったとの仮説を立てています。その理由は、2016年に出版された「卑弥呼は金髪で青い目の女王だった(KKロングセラーズ)」で明かされています。
鏡は古代のハイテク通信機器?
卑弥呼の時代、複数の鏡の反射を利用して直線距離を引いたり、動かしたり明滅させたりして信号を送ったりしていたようです。
239年8月、朝鮮半島の支配者である公孫氏が滅びたことを、卑弥呼はいち早く知ったようで、事件のわずか十か月後には、帯方郡に使者を送り、魏への朝貢を申し込んでいます。
今回は、邪馬台国の比定地を「鹿児島県霧島市隼人町」だとする加治木 義博氏の説をご紹介しました。
歴史言語学者の加治木氏は距離や方角より、まず最初に「地名」から比定地を想定する方法を採用しています。その方法は非常に複雑なため、うまく説明できたかわかりません。
ここで紹介できたのは、彼の仮説のごく一部ですので、続きは『卑弥呼は金髪で青い目の女王だった』をお読みください。
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